しかし、アメリカン・ライティング・マシン社の資金繰りは非常に苦しく、デンスモアは、レミントンからの特許使用料を、そのまま運転資金に注ぎ込む有様でした。1881年9月30日付のデンスモアからエイモスへの手紙を見てみましょう。
この手紙の前半は、ヨストからデンスモアへの手紙(1881年9月28日付)であり、ヨストがデンスモア宛に「100ドル小切手を同封する」旨が書かれています。しかし、後半のデンスモアからエイモスへの手紙(1881年9月30日付)の部分には、小切手は「たぶん事故のため、あるいはそもそも」同封されておらず、また、「Caligraph」の売れ行きも楽観視できない旨が書かれています。実際、デンスモアは、バロン兄弟やショールズのタイプライター特許を出願できないまま、それらの技術を、アメリカン・ライティング・マシン社が開発中の新たなタイプライターに、次々と導入していきました。その一方で、ヨストとデンスモアは、小文字を打てるタイプライター特許を、いまだ取得することができていなかったのです。この時点で、小文字を打てるタイプライターの市場は、ブルックスの「プラテン・シフト」特許、すなわち「Remington Type-Writer No.2」の独占状態にありました。
1882年8月1日、ベネディクトとウィックオフは、E&T・フェアバンクス社のシーマンズ(Clarence Walker Seamans)と共同で、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社を設立し、E・レミントン&サンズ社のタイプライター販売権を独占するのに成功しました。これに対し、ヨストとデンスモアは、1882年8月26日、アメリカン・ライティング・マシン社の資本金を30万ドルに増資するため、コリー・ナショナル銀行のアレン(Timothy A. Allen)とハーモン(Clarence Gillette Harmon)を、それぞれアメリカン・ライティング・マシン社の社長と出納役に迎えました。そして、増資と同時に「Caligraph No.2」を発売しました。デンスモアとヨストにとって、これは大きな賭けでした。
「Caligraph No.2」は72キーのタイプライターで、大文字26種類・小文字26種類・数字8種類・記号12種類に、それぞれ異なるキーが割り当てられていました。「プラテン・シフト」特許を手に入れられなかったヨストとデンスモアは、72種類の文字を72個のキーに実装するという形で、小文字を打てる「Caligraph No.2」を実現したのです。それでも、可鍛鋳鉄を用いた「Caligraph No.2」は、全体の重さが20ポンド(約9キログラム)に抑えられており、しかも値段は80ドルでした。対するウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、「Remington Standard Type-Writer No.2」を発売し、値段を100ドルに引き下げてきました。こうして、小文字を打てるタイプライターの市場は、「Caligraph No.2」と「Remington Standard Type-Writer No.2」の全面戦争となったのです。
(ジェームズ・デンスモア(24)に続く)