タイプライターに魅せられた男たち・第129回

ジェームズ・デンスモア(22)

筆者:
2014年5月1日

デンスモアとヨストは、アメリカン・ライティング・マシン社の生産工場を、マンハッタンの西31丁目に立ち上げました。この工場は、最新鋭の設備を揃えた近代的な工場であり、1日100台の受注生産が可能、というのが宣伝文句でした。工場を立ち上げるに当たって、デンスモアは、弟のエイモスやエメット、それに加えてバロン兄弟を、アメリカン・ライティング・マシン社に呼び寄せていました。バロン兄弟は、デンスモアの妻アデラの連れ子にあたり、兄のアーネスト(Ernest Ryan Barron)はE・レミントン&サンズ社で、弟のウォルター(Walter Jay Barron)はショールズのもとで、それぞれタイプライター製作の経験がありました。ただ、現実には1日100台の生産は無理で、将来は1日100台を目指したい、というのが本当のところでした。

「Caligraph」(American Machinist, 1880年5月1日)
「Caligraph」(American Machinist, 1880年5月1日)

1880年4月、アメリカン・ライティング・マシン社は「Caligraph」を発表しました。ヨストとデンスモアは、とうとう自前のタイプライターを生産開始することにしたのです。ネズミ鋳鉄を材料にしているE・レミントン&サンズ社と違って、アメリカン・ライティング・マシン社は「Caligraph」に可鍛鋳鉄を用いることで、少ない材料で強度を上げるのに成功していました。この結果「Caligraph」は、全体の重さが10ポンド(約4.5キログラム)とそこそこ軽く、もちろんフットペダルや専用台といったものもなく、コンパクトな印象のタイプライターでした。しかも「Caligraph」の値段は60ドル、「Remington Type-Writer No.2」が150ドルでしたから、実に半額以下です。

「Caligraph」は48キーのタイプライターで、しかし、大文字しか打つことができませんでした。ヨストとデンスモアは、小文字を打てるタイプライター特許を、まだ取得できていなかったのです。ヨストが出願した「改良」特許はおろか、そのもととなっているジェンヌの特許も、デンスモアは、成立させきれていなかったのです。いずれも、ブルックスの「プラテン・シフト」特許(U.S. Patent No. 202923)に抵触していたからです。業をにやしたヨストは、問題となっている「改良」特許の中から、他の特許に抵触しない部分をバラバラに取り出し、1880年6月28日と7月12日に合計5つの特許申請として、あえてデンスモアを経由しない形で出願しなおしました。また、これらの特許の譲渡先を、タイプ・ライター社ではなく、アメリカン・ライティング・マシン社へと変更してしまいました。譲渡先の変更手続には、もちろんデンスモアも関わっていましたが、「Caligraph」の生産を開始する以上、小文字を打てるタイプライター特許を後回しにしてでも、必要な特許を成立させておく必要があったのです。

ジェームズ・デンスモア(23)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。