デンスモアとヨストは、アメリカン・ライティング・マシン社の生産工場を、マンハッタンの西31丁目に立ち上げました。この工場は、最新鋭の設備を揃えた近代的な工場であり、1日100台の受注生産が可能、というのが宣伝文句でした。工場を立ち上げるに当たって、デンスモアは、弟のエイモスやエメット、それに加えてバロン兄弟を、アメリカン・ライティング・マシン社に呼び寄せていました。バロン兄弟は、デンスモアの妻アデラの連れ子にあたり、兄のアーネスト(Ernest Ryan Barron)はE・レミントン&サンズ社で、弟のウォルター(Walter Jay Barron)はショールズのもとで、それぞれタイプライター製作の経験がありました。ただ、現実には1日100台の生産は無理で、将来は1日100台を目指したい、というのが本当のところでした。
1880年4月、アメリカン・ライティング・マシン社は「Caligraph」を発表しました。ヨストとデンスモアは、とうとう自前のタイプライターを生産開始することにしたのです。ネズミ鋳鉄を材料にしているE・レミントン&サンズ社と違って、アメリカン・ライティング・マシン社は「Caligraph」に可鍛鋳鉄を用いることで、少ない材料で強度を上げるのに成功していました。この結果「Caligraph」は、全体の重さが10ポンド(約4.5キログラム)とそこそこ軽く、もちろんフットペダルや専用台といったものもなく、コンパクトな印象のタイプライターでした。しかも「Caligraph」の値段は60ドル、「Remington Type-Writer No.2」が150ドルでしたから、実に半額以下です。
「Caligraph」は48キーのタイプライターで、しかし、大文字しか打つことができませんでした。ヨストとデンスモアは、小文字を打てるタイプライター特許を、まだ取得できていなかったのです。ヨストが出願した「改良」特許はおろか、そのもととなっているジェンヌの特許も、デンスモアは、成立させきれていなかったのです。いずれも、ブルックスの「プラテン・シフト」特許(U.S. Patent No. 202923)に抵触していたからです。業をにやしたヨストは、問題となっている「改良」特許の中から、他の特許に抵触しない部分をバラバラに取り出し、1880年6月28日と7月12日に合計5つの特許申請として、あえてデンスモアを経由しない形で出願しなおしました。また、これらの特許の譲渡先を、タイプ・ライター社ではなく、アメリカン・ライティング・マシン社へと変更してしまいました。譲渡先の変更手続には、もちろんデンスモアも関わっていましたが、「Caligraph」の生産を開始する以上、小文字を打てるタイプライター特許を後回しにしてでも、必要な特許を成立させておく必要があったのです。
(ジェームズ・デンスモア(23)に続く)