これまでに、インターネットに書き込まれている「うそだよぴょーん」の「ぴょーん」のようなことばを「キャラ助詞」と呼んで触れることがあった(第1回・第10回)。
キャラ助詞が文の最終末(いまの例なら終助詞「よ」の後ろ)に現れることについては、ひょっとしたら藤原与一氏の指摘と通じ合う部分があるのかもしれない。氏の指摘とは、たとえば宮城県松島海岸の方言「おしんこ、ねーすかわ」(おしんこはありませんか)の最終末の「わ」は、もともと話し手自身(わたし)を指すことばだ、というものである。九州で言う「知りまっしぇんばい」の「ばい」や「知らんわい」の「わい」なども同様で、これらはもともとは自分を指す「ばい」「わい」である、話し手は自己の立場をひっさげて発話に及ぶのだと氏は論じている。自己を表すキャラ助詞が文末に現れることも「自己の立場のひっさげ」と考えるべきなのかもしれないが、さらに検討を進める必要がある。また、私自身のごく小規模な調査で、韓国語や中国語にもキャラ助詞の類例があるとわかってはきたが、これについても、なおくわしい調査が必要であろう。それらを措いての話に過ぎないが、キャラ助詞について或る程度の説明ができる段階になったので、ここでまとめて述べておきたい。
「うそだよぴょーん」のようなことばは、ぴょーん語、と言って悪ければ、ぴょーん方言のことばである。
もちろん、そんな言語や方言はありはしない。だが、いま『平安貴族』のことばとして通用している「~でおじゃる」が、実は平安貴族のことばではなく室町時代あるいは江戸時代の庶民のことばであったように(第10回・第14回)、現代日本語社会にことばが外部から持ち込まれるとき、重要なのはそのイメージであって、厳密な出所が問題にされることは(専門用語を別とすれば)一般的ではない。
ぴょーん語、あるいはぴょーん方言は、『ぴょーん人』のことばである。これは日本の言語文化の伝統と言ってもいい。日本では犬は「そうだワン」、猫は「そうだニャー」、さらにワニまでが「そうだワニ」などとしゃべることになっているのである。『ぴょーん人』が「そうだぴょーん」としゃべって悪いわけはない。そういえば、私は雑誌『言語』(大修館書店)でキャラ助詞を取り上げたとき(2005年4月号チャレンジコーナー)、「そうですもちょ」などと書いた。あれは『もちょ人』になって書いたのである。
共同体由来の『平安貴族』キャラがことあるごとに「~でおじゃる」としゃべるのは、ふつうにしゃべっているだけなのだが、はたから見るといかにも『平安貴族』であり、つまりノーブルで怠惰である。それと同じように、共同体由来の『ぴょーん人』キャラがことあるごとに「~ぴょーん」としゃべるのは、ふつうにしゃべっているだけなのに、はたから見るといかにも『ぴょーん』で、つまり、、、あまりよくわからないが、「ぴょーん」という音の響きからして、なんとなくかわいくて人をなごませるようなイメージである。
てなことを、もちろん遊びでやっているのである。「うそだよぴょーん」とインターネットに書き込む人間が、ふだんからぴょーん語やぴょーん方言をしゃべる『ぴょーん人』であるはずがない。私だって、ふだんから『もちょ人』をやっているわけではない。あの時だけである。あれは遊びでやったのである。(『言語』さんごめんなさい。) キャラクタは変えてはならないことになっているが(第4回・第6回・第9回)、遊びの文脈なら変えてもいいのである(第10回)。