群馬県の公立中学2年生の生徒さんたちに、お話をする機会を頂いた。大学はまだ(やっと)夏休み、中学は新学期の時だ。
「人という字は、」に続くことばは?
「二人の人が支え合ってできている」、70人以上集まってくれた生徒さんのほとんどがそう答えてくれる。どうして知ったのかと尋ねると「金八ー」と答えてくれる。あの「3年B組金八先生」だ。行き方や道徳を説くのにふさわしい教室の状況が目に浮かぶ。また、別の生徒さんはCMとも言う。テレビの情報を行き渡らせる威力は、とてつもない。この人の字についての俗解は、教育学者の新渡戸稲造が字源としてではなく、あくまでもお話としてだと明示して本に記したものが広まったということを放送したNHKの番組は、立派だった。しかし、人気ドラマの印象的なシーンでの決め台詞には叶わないようだ。
昨年の同じクラスでは、前もって「辞書にないのに使われている単語って、あるかな?」と問うてみた。いくつか出た中に「消しカス」という語があった。消しゴムを使って出た小さなゴミのことで、言われてみれば子供たちが日常よく使っている。漫画のキャラクターの名にまでなっている。「辞書に載せて」「載せて」と声を揃える。同類の語構成、語義をもつ語の状況や、まだ集団や場面による偏りが大きいとみて、見送ったほうがよさそうだろうか。
年齢の「歳」は国語の授業で習いたてか、まだ習っていないのかもしれない時期だが、「才」との違いについて思うところを、ここでも尋ねてみた。
「年齢が1-29までが「才」」という生徒がいた。妙に具体的なところが気になる。「10歳以上」、「二十歳から「歳」」、また「社会人と学生で違う」、「社会人は「歳」」などと意見が重なる。これらには、書写者の年齢を指すものと記述年齢を指すものとが混じっているようだ。そうした年齢による壁を何となく理解している点は、大学生や社会人とそう変わらず、十代初めにして、すでにこうした意識を暮らしの中で自然に獲得しているのかと感銘を受けた。
その他の名答を見てみよう。
「場面・用紙の種類による」とある。「ちゃんとした行事・普段で違う」、「略式・正式」というのもこの類に入るか。「いそがしさ、めんどくささ」というのは、より書き手の書字状況や心理に即している。
さらに中学生らしいものを見ていこう。リラックスした雰囲気を醸成できれば、生き生きとした意識や意識化されたものが立ち上ってくる。
「おめでたい・ふつう」。これに近いのが、「誕生日の時・普通に」。誕生日のケーキでは「才」だという説が大学生女子から提示されたことがあり、クリームという物理的な制約がもたらす略記ともいえると感心したことがある。
中学生たちからは「誕生日が来たら・年度の」、「~カ月・ぴったりその歳?」という答えも来た。学年か数え年か、という意味であろう。「才」よりも「歳」の方が、見た目だけでなくどことなくフォーマルどころか旧式に感じられる、という意識の生み出したものだろう。「歳」にさらに微妙な旧字体のあることなどは、ほとんど気付かれていないはずだ。
「目上・目下」というのは、かつての「樣」「様」など字体による待遇表現としての書き分けに通じる意識である。
「生きている人・死んでいる人」。墓碑や位牌か、訃報か何かでの使用が頭に印象深く刻み込まれた経験によるのだろうか。実は死者のためともいえる字は存在する。道教の札は日本では修験道などを除いて現在ではあまり定着していないが、「吊」から派生したのが「弔」という字だ。さらに唐代の『干禄字書』にも、「塊」はただ「弔書」つまり弔いやお悔やみの文章・手紙では「凷(由のようだが、土×凵)」と書き、ともに正しい字だと認めている。現代の日本では、葬儀社や仏具店に、その名の1字を上下逆さまにしているところがいくつかある。その理由を教えてくれないところもあるそうだが、文字霊(だま)のごとき力を認めた上での呪術的な用法であろうか。
中学生の「歳」「才」に戻ろう。「動物・人」、逆に「人間・動物」という意見もあった。動物と言って何を思い浮かべているのかだが、ハムスターや猫は「才」、亀は「歳」といった開きもあるのかもしれない。「手がある・ない」という答えは、犬や虫、蛇か何かのことだろうか。とにかく子供らしい発想だ。
「縦書き・横書き?」という生徒さんの書き込みもあった。なるほど縦書きにはどことなく「歳」が似合うため、大人でもそういう人がいる。