「円」は元は「圓」だった。今は、神社の奉納社名簿や落語家さんの芸名など使い途が限定されてしまった。この「円」という「新字体」は、元を辿ると、平安時代に弘法大師、空海が「囗」の中に「|」だけを書いて済ましたことに遡れると話す。その下の横画がだんだんと書きやすく短めに書かれるようになっていき、真ん中辺りまでせり上がって、ついに「円」という字体ができた、これがなければ家計簿に書くときにも大変だったはず、と話してみる。由来をお聞きになって、そのお寺に銅像として立つ空海さんは偉い、とそこのお坊さんの先生。
空海は、「圓」を略しただけでなく、「菩薩」は「ササ」を上下に重ねて「」という合字で書いていた。これは空海の独創ではなく、中国は唐代に僧侶がすでに発明していた略字で、日本では古くから抄物書きともよばれる一群をなしてきた集団文字、場面文字の代表格であり、位相文字の典型だ。
その若いお坊さんの先生が、話を聞いて、ご自身の経験を教えてくださった。大正大学で学んでいたときに、「」を先生が板書していたのだそうだ。さすが仏教系の大学、千年来の仏徒の位相文字が継承されているのだ。
そこまでは、他でも同様のお話を聞いたことがあった。そこからが面白い。横書きではそう書くが、「私たちは」、縦書きでは「」と、井戸の「井」のように、「=」の後に「||」と、上下をつなげて書いていた、と言うのだ。そう指で示しながらお話ししてくれた。これ(「」)さえ面倒になってのことだそうだ。最初は、たまたま縦線同士が上下でつながったのだろう、それが、「あ、これでいける」となったのだろうとみずから顧みて分析し、解説を加えてくださる。
それは、一人だけでなく、学生たちがそう書いていたということのようで、まさに位相文字の新たな位相文字化だ。使用範囲はさらに狭まるが、形からも文脈からも一目で元の字と同定され、また意味も理解される可能性が高い。筆記経済がさらに進展した、歴史的に貴重な例を、お寺の一室で知ることとなった。
「菩薩」は多い、弥勒菩薩、観音菩薩、勢至菩薩、日光菩薩、月光菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩などたくさんいるから、縦書きでお名前を横に並べて、線(}か))で束ねてから、その下にまとめて一つだけ「」を書いた、とも思い出して語って下さった。必要なところでは、文字は「進化」を遂げるものだ。まさに筆記経済の表れであり、これはその雄弁な証の一つに違いない。
以前、そのお父様は、小著『日本の漢字』(岩波新書)に書いたことを覚えて下さっていて、「ササ菩薩」のほかに、たしか「」という「ササ点菩提」もご存じであった。お墓の卒塔婆に、曽祖父が筆記したのを見て、これは何かと尋ねて、それで覚えたと、お話し下さったことがある。この字については、ご子息はご存じではなかった。父からは仏教を習ったことはないとのこと、同じ家と職場にいても、伝承が起こるとは限らないことは、どの環境でも一緒のことなのだろう。
同じようなこの菩提の略記の口伝の話は、ほかのお寺でもたまたまうかがったことがあった。この「菩提」の略字は、中国の敦煌文書のそれが、下部を「卅」のようにするのと違っていることも興味深い。日本で昔、やはりさらに書きやすく変えたのだろうか。確かに、「図書館」が略字化されたこと(第133・134回)と同じで、ノートやメモの類で、そんなところの一点一画にかかずらわっているよりも、先に進んで別の内容面の解釈や悟りに近づくための勤行などのことに時間とエネルギーを使っていった方が生産的だと思う。僧侶の合理主義的な一面によって、日本独自の抄物書きは、中世以降、数多く派生した。
早大では、仏教美術専攻の学生が、ノートに菩薩を「BS」と書く、観音菩薩を「KNBS」と書いている、と教えてくれていた。これはお母さんたちには面白かったようだ。「空気読めない」の「KY」だけでなく、「玉子かけご飯」が「TKG」となる時代らしい。「BS」は目新しくはあるが、目指すところもやっていることも、実は千数百年の間、そうは変わっていないのだ。
あらゆる場面で標準とされる「正しい文字」が確定し、それ以外が仮に禁止され、文字が変化を止めたら、どうなるだろう。川は流れが止まれば淀み、水は腐る。新しい水が流れ込む環境があって、生き生きとした姿を保っているのである。社会も人間もことばも移り変わる以上、変化を受け止めながら、場面ごとに最適な文字を模索し続けていくことが必要なのだろう、という日頃の思いを改めて強くした