「」、この字は一字で「としょかん」と読む。音読みとみれば合字、訓読みになっているとみれば一種の形声文字といえようか。秋岡梧郎が作った個人文字に端を発する。秋岡氏は、「図書」「読書」など、筆記に便利な個人文字をほかにもいくつも作り、弟子が受け継ぐ中で残ったのがこれだった。同じ頃に、日本に滞在していた中国の人が作った「圕」は、東京外大の蔵書印でも使われている例を見かけたが、それよりもよほど簡便で、位相文字(集団文字、場面文字)となっている。
これを「図書」の略記としても使っているという男性もいらした。たしかに、そう使いたくなるのも人情だろう。『図書館雑誌』では、これが活字になって使われていたと知らせてくれた女性もいらした。これは確か明朝体で印刷されていたのを見たことがある。
この字は、実は他の集団も、別の意味で使っている。高校生に対する模擬講義の際に、この字について話してみた。その時に、その私立学校では、これを「かくと」と読ませている、と生徒たちが言う。「囗」が「角(かく)」なのだろう。各自図書館へ、という特定の時間を表す略記なのだそうだ。秋岡梧郎の造字とは別個に生まれたものなのだろうか。あるいはそれに当て読みをして、その高校独自の意味を付与し、新用法を獲得させ、定着させたものだろうか。
さらに、かつて、受講していた法学部生が興味深いことを教えてくれた。ある若い先生が、これを「登記」の略記として板書に用いているというのだ。学生のノートの字にもそれが影響しているそうだ。なるほど、民法では、「登記」は頻出する用語で、一方、そこでは「図書館」などという語はそうは出てこない。たまたま面識のあったその担当の先生にうかがったところ、「ト」の周りは「くにがまえ」ではなく「□」(四角)とのことで、自分もそれを先生から教わったという。まさにこれはこれで集団文字だった。記号のようだが、語形との明確な対応を有しているのだ。
このような状況になっていることが確認されたため、「」をもしそういう字まで収集対象にする字典を作って記述するならば、日本の用法としては、ブランチが3つ立てられる。
なお、登記には「」という旗印を書くという先生もおいでだそうだ。自分のもの(会社や土地)だ、として旗を立てるということなのだろうが、そんなものは知らない、という法学の先生のほうが多く、どうも学内でもいろいろと流派のようなものがあるようだ。概して集団文字というものは、当事者になってみないとはっきりとは掴めない。意外な事実がまだまだありそうだ。逆に当事者であっても、もちろんそれを意識化し、客体化させないかぎりは、それは空気のような存在であって、その位置に意味を見出すことは生まれない。地域文字にそれはいっそう顕著だ。
文字の話をするときには、具体的な文字を示さなければならない。具体例に沿わない文字の議論は、眠気を誘うばかりとなりかねない。司書さんたちへの話では、黒板がない国際会議場の2階建てのホールだったので、文字を書いた紙を、背後の大きなスクリーンに投影できる、かつてのOHPのような設備を準備して下さった。急遽、白紙と、受付にあったサインペンとを持ってきていただき、それにその場で文字を書いては示すこととなった。先に書いておくという時間の余裕はもうない。1枚だけ、とくに厄介な字を書いてはみたが、本番では取り紛れて出てこなくなった。
習い事など、型やお作法にはめられることを嫌うというか苦手とする性分だが、知識は力なりと堅く信じていた高校時代に、文部省認定という謳い文句を信じて受講したペン習字やレタリング、校正実務、さらに大学生になって近所で看板を見て飛び込んだ書道塾(そこでは立派な先生に巡り会えた)が、多少なりとも字の結構や点画の形状の再現に、役立つこととなる。文字を研究する際には、文字に関わることに、没入しきると危うさが生じるが、そうした経験はしないよりはしておいたほうがよい。もっと何でもやっておけばよかったのかもしれない。