日本語社会 のぞきキャラくり

第74回 破綻キャラ(前)

筆者:
2010年1月24日

発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べ(第57回~第72回)、さらに「観点が4つでは足りないのでは?」という、予想される疑問に答えた(前回)。だが、「観点が4つでは足りないのでは?」という疑問は、前回とは違った意味合いで発せられることもあるだろう。つまり、たとえば「「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。これでいいのか?」といった疑問である。ここではまず、私が「破綻キャラ」と呼ぶものから説明していこう。

そもそもキャラクタというものが、遊びの文脈を別とすれば表現意図とはなじまないということは、いくら強調してもしすぎることはない。たとえば、人から『豪傑』キャラと思われたいなら、山本周五郎の『豪傑ばやり』(1940)に出てくる「ニセ夏目図書」のように、やることなすことは周到に豪快を極めながら、それを演出する意図はみじんも気取られてはならない。(周五郎先生、ネタばれすみません。)

 事実、図書がこの屋敷へ来てからの挙措言動は豪快を極めていた。朝起きるとからの酒で、言葉通りでん(「でん」に傍点)と腰を据えたまま浴びるように飲む。酔えば調子も節も度外れな声で放歌する、よく聞いていると、
 ──ああ やんれさの やんれさの ああやんれさの やんれさの やんれさの。
 何処(どこ)まで行っても同じ言の羅列(られつ)なのだが、文句などに拘(こだ)わらぬところが実に壮絶で、なるほど豪傑というものは末節に関(かか)わらぬものだという気がする。
 ──ああやんれさの やんれさの なんだおまえたち、なにをきょろきょろしちょる。腹だ、腹だ、腹を据えて飲め。豪傑たる者が小さなことにくよくよするなッち、おまえらの事はこの夏目図書が引き受けたぞ、さあ歌え、やんれさの ああやんれさの やんれさの。
 ざっとこういう次第である。

[山本周五郎『豪傑ばやり』(1940)]

「これだけ飲んで歌ったから、私のことを『豪傑』だと思ってくれるよね」などと表現意図をひとこと漏らすだけで、『豪傑』キャラのイメージは木っ端みじんになってしまう。このことはこの連載の開始直後から(第3回)、ずっと述べてきたことである。

さて、或る人物が或るキャラクタを密かに演じている際に、その意図が他人に探知されてしまったとする。あ~あ、である。この場合、その人物は、もはやそのキャラクタとしては破綻しており通用しない。

だが時として、その破綻によって、その目標キャラではない、別の複合的なキャラクタが成立することがある。これが私の言う破綻キャラである。(つづく)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。