いくら豪快に飲み歌っても、それが『豪傑』と思われようとしてのことだとわかれば、もはやその人は『豪傑』ではない。何を言い、何を行うにしても、「自分はこういう者(たとえば『豪傑』)だ」と表現しようとする意図がそこに読み取られてしまえば、もはやその人の言動(豪快な振る舞い)は、そういう者(『豪傑』)の言動としては破綻しており通用しない。ところが時として、その破綻含みで、複合的なキャラクタが成立することがある。これが破綻キャラだ、というところまで話は進んだ(第74回)。
たとえば、『二枚目』を演じようとする表現意図が露わになってしまい、『二枚目』として破綻をきたした人物には、『キザ』という別のキャラクタが割り当てられる。『キザ』キャラとは、『二枚目』キャラを演じようと意図し、その意図ゆえに『二枚目』キャラとして破綻することによってできた破綻キャラである。
またたとえば、『お嬢様』を演じよう、カワイコぶろうとして意図が見抜かれ破綻した場合、その人物は『ブリッ娘(こ)』という別のキャラで語られることになる。『ブリッ娘』とは『お嬢様』キャラが破綻してできた破綻キャラである。
『ブリッ娘』といえば現代っぽいが、伝統的に『カマトト』と呼ばれてきたのも同じものである。この名前は「カマボコって、トト(魚)からできてるの?」とあどけなさを装うところから来ている。私たちは昔っから、こういうしらばっくれ合い、見抜き合いをやってきたのである。
そして、前回から問題になっている『オカマ』もまた、『女』を演出する意図が露呈している点で一種の破綻キャラと言える。
ここからは、別の疑問に対してすでに述べた回答(第73回)と変わらない。つまり、「発話キャラクタの「性」について『男』や『女』は論じられたが『オカマ』は論じられていない。観点が4つでは足りないのでは?」といった疑問は、「発話キャラクタ」を「キャラクタ」と同一視してしまっている。
なるほど、「キャラクタ」を考える際には、『オカマ』は重要なキャラクタの一つ、破綻キャラの雄、いや雌とされるものだろう。だが、『オカマ』が『女』と大して変わらないしゃべり方をするのであれば、発話キャラクタの「性」としては『女』を認めておけばいい。
もちろん、『オカマ』と『女』でしゃべり方が違っている部分はあるだろう。たとえば「あたしたちオカマは」という語の連なりは、『オカマ』が発することはしばしばあるかもしれないが、『女』はまず口にしない。しかし、こうした違いは「『オカマ』は『オカマ』だが、『女』は『オカマ』ではないから」という当たり前の常識で説明できることであって、特にことばの問題として重視すべきものとは思えない(第27回参照)。
前回も述べたように、「品」「格」「性」「年」の4つの観点だけで発話キャラクタの全面がくまなく、十分にとらえられるとは、実は考えていない。主なところは見られるだろう、ぐらいの考えである。たとえば「あたしたちオカマは」としゃべる可能性に関する『オカマ』と『女』の違いといったものは、その「主なところ」には含まれず、見過ごされる。とりあえずはそれでいいのではないかというのが「4つの観点」を持ち出す真意である。
なお付言すれば、日本語社会において、どのようなキャラクタの破綻に対しても破綻キャラが用意されているわけではない。たとえば、日本語が下手な『外人』のはずだったのが、実はそれを演じていただけで日本語や日本文化に通じているということがバレてきた外国人タレントの場合、この破綻を何々キャラと言い当てることはできない。そろそろそういう言葉ができてもいいかもしれない。