発話キャラクタを「品」「格」「性」「年」という4つの観点から述べてきたことに対して(第57回~第72回)、読者がまず感じそうな疑問は、「観点が4つでは足りないのでは?」というものではないかと思う。なにしろキャラクタというものは万物に宿るのであって(第42回)、私たちはたとえば「B型」や「サソリ座」のように、血液型や星座からさえキャラクタを論じることができる。だから、4つでは到底足りないではないかというのがこの疑問である。
この疑問は、一見もっともに思えるが、実は「キャラクタ」と「発話キャラクタ」を同一視しているという誤りを犯してしまっている。「発話キャラクタ」は「キャラクタ」の一種であって、両者は同じではない。たしかに、キャラクタを論じるにあたっては実にさまざまな観点が必要である。しかし発話キャラクタについては、そのうち一部の観点だけで済むというのが私の考えである。
たとえば「美醜」という観点は、世に「美人論」や「ブス論」が絶えないように、キャラクタを考える上では重要なものだろう。だが、『美人』の話し手と『ブス』の話し手で、ことばが違うわけではない。なるほど、『美人』は「わたくしが存じておりますわ」、『ブス』は「あたいが知ってるってんだよ」など、読者はそれらしいことばの違いに思い当たられるかもしれないが、それはキャラクタの「美醜」の違いではなく「品」の違いである。美しくても下品な話し手は「あたいが…」としゃべり、醜くても上品な話し手は「わたくしが…」としゃべる。
またたとえば、「善悪」という観点は、キャラクタ一般を考える際には必要であり、さらに、ことばと関わるキャラクタにとっても必要なことがある。「ニタリとほくそ笑む」というのは『悪者』限定の動作であり、正義の味方の微笑は「笑みがこぼれる」と表現されることはあっても「ニタリとほくそ笑む」と表現されることはない(第43回)。だが、このように「善悪」の観点が必要なのは「表現キャラクタ」、つまりことばによって表現される、動作の行い手などのキャラクタ(第43回・第48回)である。ここしばらくの間(第57回~)、ずっと問題にしてきた「発話キャラクタ」、つまりことばを発する話し手のキャラクタには「善悪」の観点は必要ではない。次の2つのセリフは、このことをよく示している。
「げっへへ、これでよぉ、罪もない市民をよぉ、救えるってぇ寸法だぜ」
「げっへへ、これでよぉ、罪もない市民をよぉ、殺せるってぇ寸法だぜ」
セリフの内容は前の文が善、後の文が悪で大きく異なるが、しゃべり方としては「げっへへ」にしろ「よぉ」にしろ「ってぇ寸法だぜ」にしろ、『下品で格の低い年輩の男』あたりを思わせるという点で2つのセリフは違わない。もちろん、「内容」と「しゃべり方」の線引きは微妙な場合も少なくないし、『悪者』っぽいしゃべり方、『いい者』らしいしゃべり方は傾向としてはあるだろうが(詳細は勅使河原三保子(2004)「日本のアニメの音声に表された感情とステレオタイプ―良い人物と比較した悪い人物の声質―」『音声研究』第8巻第1号)、上のセリフで示したように、善悪が「しゃべり方」に直接関与するとは考えにくい。
B型人間のしゃべり方がA型やO型、AB型の人間のしゃべり方と違っているなら、発話キャラクタを「血液型」の観点から論じることに異存はない。サソリ座人間のしゃべり方が他の星座の人間のしゃべり方と違っているなら、発話キャラクタを「星座」の観点から喜んで論じる。だが、そうした違いが明らかでない現状では、「血液型」や「星座」の観点は取り上げない。「善悪」も同様である。発話キャラクタを観察するための観点としては、「品」「格」「性」「年」の4つで十分、ではないかもしれないが、まぁ、主なところは見られるだろう。