人物:[ア]藤原成実 [イ]高階仲基 [ウ]藤原範光 [エ]源惟頼 [オ]頭の中将藤原実宗か
建物:①殿上の間 ②・⑮壁 ③・④上戸(かみのと)の扉 ⑤落板敷(おちいたじき) ⑥扁額(へんがく) ⑦神仙門 ⑧小庭(こにわ) ⑨小板敷 ⑩沓脱 ⑪茵(しとね) ⑫倚子(いし) ⑬台盤 ⑭火櫃(ひびつ) ⑯柱 ⑰下戸(しものと) ⑱階段 ⑲立蔀(たてじとみ) ⑳主殿司宿(とのもづかさのやど)の屋根
衣装等:Ⓐ銚子 Ⓑ・Ⓗ杯 Ⓒ束帯 Ⓓ・Ⓕ冠 Ⓔ緌(おいかけ) Ⓖ直衣 Ⓘ肩脱ぎ Ⓙ衵(あこめ)
絵巻の場面 前回に続いて五節の行事を描いた『承安五節絵』を読み解きます。この場面は、寅の日の「御前の試」に先だって清涼殿の殿上の間で行われた殿上人たちの酒宴となる「殿上の淵酔」を描いています。「淵酔」は深く酔う意で、正月の二日か三日などにも行われました。殿上人たちに対する内々の宴となりますが、ただ飲むだけでなく、それなりの余興がありましたので、後ほど紹介することにします。
殿上の間とその周辺
最初に会場となる殿上の間を確認しましょう。画面正面が①殿上の間で、ここに昇殿を許された四位・五位の貴族を殿上人といいましたね。ここは清涼殿の南廂になり、画面上部の②壁の向こうは母屋になります。画面右手が東になり、右端に見える戸が③④上戸で、両開きになっています。この戸は、第40回の「内論義」でも描かれていましたので参照してください。殿上の間の位置関係も理解できます。上戸の右が⑤落板敷でした。画面では省略されていますが、上戸の画面手前に右青璅門(みぎせいさもん)があることになりますね。これも第40回で分かります。この門から、⑥扁額がかけられた⑦神仙門までは⑧小庭と呼ぶ土間となり、ここに殿上の間に接して置かれるのが⑨小板敷で、紫の縁の畳が敷かれた坐る場所にもなります。神仙門の左側は、⑩沓脱です。
上戸から殿上の間に入った所に見えるのが、⑪茵の敷かれた⑫倚子です。何のために置かれているのか、お分かりですね。清涼殿で倚子に坐れるのは、天皇だけでしたので、その出御に供えて常置されているのです。殿上の淵酔に天皇が出御する場合は、多く上戸の前に倚子を置いて内々に覗いたようです。この日は殿上の間に置かれたままなので、出御はなかったのでしょう。
殿上の間の中央には⑬台盤(テーブル)が二つ置かれています。これも常置され、小さい切台盤(きりだいばん)も東側に添えられますが、淵酔のために撤去されているのでしょう。台盤の左側に見えるのは、⑭一双の火櫃です。四角の箱に火炉を入れて、採暖用にしますが、お燗にも使用しました。
殿上の間の西側は⑮壁と、しっかり描かれていませんが⑯柱の向こうは⑰下戸(女官の戸)になっています。この下戸を出ると、正面に渡殿、左(南側)は⑱階段、右は西簀子になります。
⑮西壁の左には、目隠し用の⑲立蔀と⑳屋根が見えます。この屋根は主殿司宿になりますが、内裏図によっては描かれていない場合があります。「主殿司」は掃除・水・薪炭などに奉仕する後宮十二司の一つで、ここにはそれにあたる「下女」が住みました。
殿上の間と蔵人 殿上の間には、天皇近臣として天皇・宮廷にかかわる諸事を管掌する蔵人所(くろうどどころ)の蔵人が日常的に詰めていました。そのために、ここで公卿(三位以上の貴族)を招いた重要な政務の議定(ぎじょう。合議)や僉議(せんぎ。評議)がされても、上席には殿上人の蔵人頭(くろうどのとう)が坐りました。頭とは長官のことで、近衛府の中将を兼ねるのを頭の中将、弁官(べんかん。事務官)を兼ねるのを頭の弁といい、この二名の下に五位の蔵人・六位の蔵人が任じられ、さらに下級職員も配置されました。六位でも蔵人であれば殿上人になれました。殿上の間は蔵人たちが預かる場なのです。ですから、殿上の淵酔でも、蔵人頭が筆頭になり、他の蔵人たちが奉仕しました。画面でははっきりしませんが蔵人頭が描かれているようです。
殿上人たち それでは人物たちを確認しましょう。殿上の淵酔では、蔵人頭は、上臈が奥の座、下臈が端の座に坐ることになっていました。承安元年には、頭の弁に藤原長方31歳、頭の中将に藤原実宗26歳がなっていましたので、年若い実宗が上戸近くに坐っていることになります。この画面右側には五人描かれていて、四人には人名が注記されています。線描画では省略しましたが、これによりますと、Ⓐ銚子を持つのが[ア]藤原成実、Ⓑ杯で飲んでいるのが[イ]高階仲基、小板敷に控えるのが[ウ]藤原範光と[エ]源惟頼になります。いずれもⒸ束帯姿の六位の蔵人で、[ウ]範光を除いてⒹ冠につけるⒺ緌が見えますので武官を兼ねています。そうしますと、[オ]が実宗と思われます。『承安五節絵』では第一段にも二人の蔵人頭が描かれていまして、そこに見える実宗の顔だちと似ているように思われます。しかし、長方に似た人は、淵酔の場面には見当たりません。西壁の陰に坐っているのでしょうか。この五人のほかは、蔵人以外の殿上人でしょう。名前の注記はありません。いずれもⒻ冠にⒼ直衣の姿でいますね。
殿上の淵酔 次に酒宴の様子を見ていきます。五節の淵酔は、だいたい正午から午後四時くらいに、六位の蔵人の献杯で始められました。宴席の作法は、中世になって「式三献(しきさんこん)」という形で整備されましたが、平安時代でも一献・二献・三献と行われました。杯を順にすすめて膳を下げることが一献で、これを三度行ったわけです。場合によっては、五献に及ぶこともありました。
この場面では、何献目になっているのでしょうか。画面から分かります。台盤の上にあるのはⒽ杯で、幾つもあります。この時代には、飲んだ杯を幾つもこうして置いたのでしょう。しかし、これでは何献かは分かりません。分かるのは、殿上人たちが皆、右肩の片袖を脱ぐⒾ肩脱ぎをしていることです。これは三献目にする作法でしたので、酒宴は大分進んでいたのです。肩脱ぎは、くつろいだ宴席になった時にするものですが、殿上の淵酔では恒例になっていました。肩脱ぎの下に見えるのは、表着と下着の間に着るⒿ衵(袙とも)で、原画では赤色に描かれていて、この色が基本になります。
殿上の淵酔では、肩脱ぎの他に、一献ごとに余興がありました。一献と二献のあとには、朗詠がされます。ここでは『和漢朗詠集』に収められた漢詩による曲「嘉辰令月(かしんれいげつ)」や「東岸西岸(とうがんせいがん)」を謡うのが慣例でした。三献のあとには、今様と呼ばれる歌謡が謡われましたが、二献のあとにもされたようです。そして、肩脱ぎ、「万歳楽」という曲の奏楽に続いて乱舞がされました。拍子をとって殿上人たちが袖をひるがえして舞うことです。中には、⑬台盤の上でする者もいたようです。これが終わるとお開きになり、殿上人たちは肩脱ぎのまま身分の低い順に⑯下戸から出て、後涼殿西簀子から弘徽殿・登花殿・宣耀殿・常寧殿などの前めぐることになります。この様子は六段に描かれていますので、次回で扱うことにします。イケメンの殿上人たちを見ようと、女性たちが弘徽殿や登花殿から御簾越しに覗いている様子が描かれていて興味深いものがあります。
筆者プロフィール
倉田 実 (
くらた・みのる)
大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず邸宅、婚姻、養子女など、平安時代の歴史的・文化的背景から文学表現を読み解いている。『三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『狭衣の恋』(翰林書房)、『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園 平安文学と隣接諸学1』(編著、竹林舎)、『王朝人の婚姻と信仰』(編著、森話社)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)など、平安文学にかかわる編著書多数。
■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。
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編集部から
『三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員の倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載。次回は、今回の酒宴のあと、参加者たちが清涼殿から舞姫の控え所まで練り歩く様子を取り上げます。お楽しみに。
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