場面:五節(ごせち)の舞姫と童女が内裏に参入するところ
場所:平安京内裏内郭北側の玄輝門(げんきもん)付近
時節:承安元年(1171)11月中の丑の日の夜
[ア]五節の舞姫 [イ]五節の童女 [ウ]冠直衣姿の侍従藤原基宗(もとむね。父・基家、母・源長時女)、17歳 [エ]冠直衣姿の侍従藤原公衡(きんひら。父・公能、母・藤原俊忠女)、14歳 [オ][カ]狩衣姿の下人(しもびと)
衣装等:①松明(たいまつ) ②・⑭冠 ③緌(おいかけ) ④唐衣 ⑤裳 ⑥袿 ⑦・⑪長袴 ⑧・⑬檜扇(ひおうぎ) ⑨汗衫(かざみ) ⑩汗衫の裾 ⑫衵(あこめ) ⑮直衣 ⑯指貫 ⑰浅沓(あさぐつ)
建物:Ⓐ玄輝門(玄暉門とも。げんきもん) Ⓑ筵道(えんどう) Ⓒ遣戸 Ⓓ板敷 Ⓔ檜皮葺 Ⓕ瓦屋根
五節とは 今回取り上げる『承安五節絵』は、承安元年の五節の行事を描いたものです。五節とは、新嘗祭(にいなめさい)や大嘗祭(おおなめさい)の豊明節会(とよのあかりのせちえ)と呼ぶ宴で行われた、四人(大嘗祭は五人)の舞姫の舞を中心とする四日間にわたる行事を言います。まず十一月の中の丑の日に、舞姫やその付添いとなる童女・下仕が内裏に参入し、常寧殿(じょうねいでん)に入ります。そして、そこで「帳台の試(ちょうだいのこころみ。舞の予行演習を天皇が見る)」があり、寅の日に「殿上の淵酔(てんじょうのえんすい)」(次回参照)と「御前の試(ごぜんのこころみ。清涼殿で予行演習を天皇が見る)」、卯の日に「童女御覧(わらわごらん。天皇が童女・下仕を見る)」があって、辰の日が豊明節会で舞の本番となります。
『承安五節絵』 『承安五節絵』は、この一連の行事を九段からなる連続式絵巻で描いていて、各段には絵柄に対応する詞書が付いています。描かれる貴族たちには名前や年齢が注記され、顔は引目鉤鼻ではなく、その人に似せて描いた似絵(にせえ)になっています。現存本は、いずれも原本から直接模写したものはなく、江戸時代に転写された模本ばかりです。それでも平安時代末期の内裏や装束などの様子を伝えていて貴重です。現在は、早稲田大学図書館や京都大学図書館所蔵本などがウェブ上で簡単に見ることができますので、閲覧してみてください。線描画は前者により、後者は「五節渕酔之屏風絵」との名称になっています。
絵巻の場面 それでは、この場面を見ていきましょう。ここは、『承安五節絵』二段の五節の舞姫と童女が参内するところを描いた一部分になります。Ⓐ玄輝門(内裏内郭の北門)と呼ぶ門にいる左側の女性が[ア]舞姫で、右側が[イ]童女です。画面の時間帯は、お分かりですね。画面上部には①松明を持った[オ]下人が描かれていますので、夜の時間になります。この下人は裸足で、②冠に③緌と呼ぶ飾りをつけています。
二段の詞書 この段の詞書の一部分も確認しておきましょう。詞書は改作されていて信憑性は薄いとされていますが、参考にはなります。二段は、内裏外郭の北口となる朔平門(さくへいもん)から始まり、Ⓐ玄輝門内側までが描かれています。内裏図などを座右に置いて、道筋を確認しながら読んでください。
殿上人、朔平門に行き向かひて、をのをの参りする五節の親しき人、或は語らひたる人、行ひて、殿上人ども付きて、筵道より玄輝門の内に入りて、宣耀殿の前より五節所常寧殿にのぼるなり。
【訳】 殿上人は、朔平門に行って出迎えて、それぞれ参内する五節の舞姫の親しい人、或いは懇意にしている人などが、行なって、殿上人たちが付き添い、筵道を通って玄輝門の内に入り、宣耀殿の前から五節所の常寧殿に上がるのである。
やや整わない本文ですが、意味は通じます。舞姫たちは牛車で朔平門まで来て下車します。殿上人たちが出迎えていて、舞姫たちには前もって決められていた若い公達が付き添います。エスコート役ですね。筵(むしろ)を置いて通り道とするⒷ筵道が敷かれていて、その上を舞姫たちは玄輝門・宣耀殿(せんようでん)を通って居所とされた常寧殿まで行くことになります。こうした参内する次第が詞書に示されています。そして、絵柄はその通りになっています。画面は、右側が北、上部が西になります。
玄輝門 まず玄輝門について見ておきます。この構造は、伝存する内裏図や『年中行事絵巻』巻六「中宮大饗(ちゅうぐうだいきょう)」で描かれた図とも間数(けんすう)が違っています。また、門の東西は回廊になっていて、そこに近衛府(このえふ)の宿所がありましたが、『承安五節絵』では、門の西側にⒸ遣戸、門の東側はⒹ板敷に描かれています。東側は舞姫を描くために吹抜屋台にしたのでしょう。屋根は、Ⓔ檜皮葺の上にⒻ瓦屋根が載っています。はたして、この通りの構造であったのかどうかはよく分かりません。Ⓑ筵道が手前に折れているのは、内裏東側に位置する宣耀殿のほうに向かうからです。
舞姫の姿 続いて、[ア]舞姫を見てみましよう。五節の四日間、衣装は日によって変わり、参内する丑の日は、「帳台の試」の前に着替えています。ですから、この衣装で舞うわけではありません。線描では分かりませんが、赤の④唐衣と、白波と松の文様がわずかに見える⑤裳を着けているのが分かります。その下は、⑥袿に⑦長袴です。参内する時は、裳唐衣を着ける必要がありましたね。裳唐衣衣装は、女性の正装だからでした(第27回参照)。
舞姫は、⑧檜扇で顔を隠しています。夜とはいえ、男性の視線にさらされますので、恥ずかしがっているのです。もう少し前の時代は、差几帳(さしぎちょう)で姿が隠されましたが、舞姫たちには、そのほうがよかったことでしょう。
童女の姿 次は[イ]童女です。舞姫には二人の童女が付き添います。しかし、『承安五節絵』にはこの右側にも二人の童女が描かれて三人になっています。この[イ]童女を舞姫とする説もありますが、裳唐衣を着けない参内はおかしいですね。これはやはり童女で、童女用の正装となる汗衫姿になっています。裳の引腰のように、背後に⑨汗衫の⑩裾を長く引いています。この裾は、表と裏(黒く見えるほう)で色が違いました。汗衫の下に舞姫と同じように⑪長袴の裾を引いているのも分かります。袖口には⑫衵(下着)が重ね着されています。手には、舞姫と同じように⑬檜扇を持って顔を隠しています。汗衫姿は「童女御覧」でも扱う予定ですが、『枕草子絵詞』にも似たような童女の姿が描かれていますので参照してみてください(『三省堂 全訳読解古語辞典』1015頁の図)。
公達の姿 さらに[ウ][エ]公達の姿を見ておきましょう。内裏では束帯か衣冠の装束になりますが、この日は⑭冠に⑮直衣と⑯指貫でよかったようです。二人とも衣装がこわばって描かれた強装束(こわしょうぞく)になっていますね(第20回参照)。⑰浅沓をはいているのも分かります。若い女性の側にいられるなどめったにない時代でしたので、エスコート役は緊張しつつも、心はたかぶったことでしょう。そんな様子がうかがえる姿になっています。
『承安五節絵』の意義 五節の舞姫を描いた同時代の絵は現存していません。ですから、『承安五節絵』は、舞装束ではないといえ、舞姫と童女が描かれて貴重です。できれば舞装束も描いて欲しいところでしたが、それはありません。また、男性貴族たちの顔が個性的に描き分けられているのも貴重です。特に、エスコート役の若い公達の様子は、どことなく緊張した表情のようにも思われます。『承安五節絵』は、引目鉤鼻とは違った容貌表現を堪能できる面白い作品なのです。