場面:勅使として僧命蓮の招請に赴いた蔵人がその報告を奏上するところ
場所:内裏清涼殿東面と東庭
時節:醍醐天皇の御代の秋。
建物:①清涼殿 ②外御簾 ③几帳 ④野筋 ⑤・⑬下長押 ⑥東孫廂 ⑦落板敷(おちいたじき) ⑧年中行事障子 ⑨南廊 ⑩上戸(かみのと) ⑪柱 ⑫上長押 ⑭高欄 ⑮簀子 ⑯階(はし) ⑰御溝水(みかわみず) ⑱長橋 ⑲東庭 ⑳河竹台 馬繋廊(うまつなぎろう) 紫宸殿西北廊 棟瓦(むねがわら) 梁か石橋
人物:[ア]・[イ]束帯姿の公卿か蔵人頭 [ウ]冠直衣姿の大臣 [エ]束帯姿の蔵人 [オ]束帯姿の蔵人の随身
衣装:Ⓐ・Ⓖ下襲 Ⓑ冠 Ⓒ笏 Ⓓ扇 Ⓔ緌(おいかけ) Ⓕ太刀 Ⓗ石帯 Ⓘ浅沓
『信貴山縁起』 前回は『年中行事絵巻』(以下『年中』とします)の清涼殿で行われた「内論議」という仏教儀式を見ましたので、今回も同殿が描かれた『信貴山縁起』(『信貴』とします)を採り上げることにします。『信貴』は生駒山地南部の山にある信貴山朝護孫子寺(ちょうごそんじ)の中興の祖で毘沙門天をまつった、命蓮(みょうれん)に関する説話を描いた三巻三話からなる連続式絵巻です。今回は中巻となる「延喜加持の巻」の、延喜の帝とされた醍醐天皇が病になり、法力のある命蓮を招請するため信貴山に派遣された蔵人が、①清涼殿でその報告をするところになります。
清涼殿図の相違(1) 今回は、これまでとは違って、前回の『年中』で描かれた清涼殿と比較しながら見ていくことにします。『信貴』の清涼殿図は、『年中』のそれと、影響関係があると指摘されています。この当否を考えるにしても、まずは丁寧に比較することが必要でしょう。構図的には、清涼殿を東から描いて似ていますが、微妙な相違があるようです。以下、相違点を見ていくことにしますので、両図を並べて確認するようにしてください。
まず、画面上、東廂にかかる②外御簾に注意してください。『年中』と比べて、どうでしょうか。『信貴』では御簾の下から③几帳の裾と、その④野筋が、⑤下長押の下に押し出されていますね。天皇が病ということで、几帳を添えているのでしょう。
続いて、外御簾の左側を見てください。⑥東孫廂から二段下がる⑦落板敷に衝立が置かれていますね。これが⑧年中行事障子と言われる衝立障子になります。『年中』では、儀式の邪魔になるので、⑨南廊の壁際に押しつけられていました。このことと関連して、年中行事障子の背後の、殿上の間の入口となる⑩上戸の開閉の違いがありますね。『年中』では、殿上の間が使用されるので、開いて描かれていましたが、こちらでは閉まっています。以上の三点の違いは、儀式次第の相違によると見ていいと思いますので、これらは当然のことでしょう。しかし、以下はどうでしょうか。
清涼殿図の相違(2) この三点以外にも気をつけて比べてみますと、違いがあることが分かります。さらに違いを読み解いていきましょう。まず一点目は、柱間と長押間のそれぞれの長さの比率です。⑥東孫廂で見ますと、⑪柱間の長さと、⑫上長押と⑬下長押の長さとの割合が違っています。『信貴』では正方形に近くなりますが、『年中』では縦長の長方形になっています。
二点目は⑭高欄の付いた⑮簀子から下りる⑯階です。『信貴』では二級にしか見えませんが、『年中』ではきちんと三級になっています。絵師の間違いなのでしょうか。
三点目は⑰御溝水です。⑯階の手前の御溝水は同じようですが、左にたどってみてください。『年中』では⑱長橋に沿って折れていて、これが正しいのですが、『信貴』では描かれていません。これは剥落したのではないようです。どうしたことでしょうか。
四点目は⑲東庭に置かれる⑳河竹台です。竹の描かれかたや、竹の丈と台の高さとの比率が違っています。『信貴』では、剥落していても竹と台は同じ高さに見えますが、『年中』では竹がはるかに高く繁っています。『年中』では清涼殿が九回も描かれ、一図を除いて河竹台が描かれていますが、どれも同じではありません。竹の描きかたは、絵師の裁量により、どう描くかには決まりがなかったかと思われます。
違いが顕著なのは、画面左側です。五点目として、⑦落板敷に続く⑨南廊左側の奥行きや、⑱長橋左の馬繋廊のやはり奥行きになります。『信貴』では、紫宸殿西北廊屋根によって奥行きが分かりませんが、『年中』では何と壁まで描かれています。両図とも吹抜屋台ではありませんので、絵師の構図の取り方とかかわるようです。『信貴』では手前上空から斜めに見下ろすような視点で描いていますので、南廊の左奥は見えません。写実的にはこれが妥当でしょう。『年中』では、画面左側は、画面中央とはやや違って、右側下あたりの中空から斜めに見下ろしたような視線によって奥行きを見せるようにしています。これによって参列した貴族たちを描くようにしたのだと思われます。複数視点を合成した構図のようで、これは他の絵巻でも一般的に認められますので、この点は別に問題はありません。
六点目は紫宸殿西北廊屋根の描きかたです。棟瓦の左右を見比べてください。『年中』のほうは、左側がわずかしか描かれていませんね。
違いはまだあります。七点目です。雨どいのように見える梁の出っ張りと思われる部分と、西北廊屋根との間合いを見て下さい。『信貴』は近接していますが、『年中』には間隔が見られます。六、七点目の違いは、五点目とかかわるのでしょう。
以上、七点ほどの相違を指摘してみました。清涼殿東孫廂を東側から見れば、大枠で似た構図になるのは当然です。しかし、落板敷の左側などまで描こうとすれば、そこには違いが出てくるのではないでしょうか。『年中』には「内論義」場面の他にも清涼殿があります。さらにそれらとも比べる必要がありますが、今回はひとまず両図の違いを読み解いて、その確認にとどめます。これらの違いだけで、これまで言われてきた両絵巻の影響関係の当否を判断するのは軽率です。影響関係の有無は、今後検討されるべき課題でしょう。
描かれた人たち それでは『信貴』に描かれた人たちを見ましょう。まず、東孫廂に坐る三人の貴族の身分の違いを考えておきます。ポイントは衣装ですね。[ア]・[イ]右二人は長いⒶ下襲を見せてⒷ冠をつけ、Ⓒ笏を持っていますので、束帯装束になります。しかし、[ウ]左一人は違います。冠は同じですが、直衣を着て手にはⒹ扇を持っています。これは冠直衣姿になり、略装です。では、どちらの身分が上なのでしょう。答は左の一人になります。当時は身分が高いほど略装が許されたからです。醍醐天皇の病の時は、左大臣藤原忠平、右大臣同定方でしたので、前者かもしれません。右の二人は、公卿か蔵人頭でしょう。
階下の石橋の手前にいるのが、勅使として信貴山に訪れた[エ]蔵人です。冠にⒺ緌を付けて、Ⓕ太刀を佩いていますので武官ですね。袍の下のⒼ下襲は折り畳んでいる束帯姿、六位の蔵人になるようです。河竹台のもとにいるのは、蔵人に随行していた[オ]随身になります。背中にⒽ石帯が見えます。東庭にいるこの二人は、共にⒾ浅沓をはいています。
絵巻の場面 最後に絵巻の場面を確認しましょう。ここは[エ]蔵人が報告を行っているところを描いたのは確かです。では、命蓮を天皇の加持祈祷に招請するという役目はどうなったのでしょうか。命蓮は、自ら参内しなくても、病を治せると返事をしていたのです。蔵人はそれでは命蓮の法力によるのかどうかが分からないと疑問を呈していました。それに対して命蓮は、毘沙門天の使者となる、剣の束を身にまとった「剣の護法」とされる剣鎧童子(けんがいどうし)が現れるので、それと分かると答えていました。蔵人はこうした内容を奏上しているのです。摩訶不思議な命蓮の返事ですので、思わず束帯姿の二人は、振り向いて蔵人を見たことになります。何となく、中央の[イ]一人は不信な表情を浮かべています。[ウ]大臣は、黙然として話の真意を考えているようです。絵巻は続いて「剣の護法」の飛来を描いていきます。その前段階として、命蓮の法力を信じ難く思う公卿たちを描いたことになるのでしょう。