長保元年11月7日、定子は一条天皇の第1皇子を生みました。敦康(あつやす)親王です。起死回生を願う中関白家の希望の星でした。しかし、待ち望んでいた皇子誕生の様子について、『枕草子』はまったく記していません。『紫式部日記』が第2、第3皇子の誕生について詳しく取り上げているのとは対照的です。それは、敦康親王を差し置いて、彰子の産んだ皇子たちが次々と皇位を継承することになる歴史的事実と関わりがあるのかもしれません。
ともあれ、敦康親王の誕生によって朝廷における中宮定子の存在価値が大きくなったのは確かでした。平生昌宅での不本意な出産ではありましたが、皇子誕生100日目の祝いの儀式は、父親である天皇同席の場で行うことになります。定子は晴れて皇子と共に内裏に参入し、一条天皇との対面を果たします。
百日の儀(ももかのぎ)は長保2年2月18日で、定子の内裏参入はそれに先立つ2月12日でした。前年6月に本来の内裏が火災にあって修復中だったため、一条大宮の藤原為光邸を仮の内裏として使用していた時のことです。
一条の院をば今内裏とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿におはします。西東は渡殿にて、わたらせたまひ、まうのばらせたまふ道にて、前は壺なれば、前栽(せんざい)植ゑ、籬(ませ)結ひて、いとをかし。
(一条の院を今内裏と称します。天皇がいらっしゃる御殿は清涼殿ということで、その北側の御殿に中宮様はいらっしゃいます。建物の西と東は渡り廊下で、天皇がお渡りになり、また中宮様が参上なさる道になっていて、その前は壺庭なので、草木を植え垣根を作ってとても風情があります。)
仮住まいながら、本来の内裏に似せて今内裏と称された一条院。清涼殿になぞらえた建物に天皇が住まわれ、中宮が北側のいわば後宮に相当する建物に滞在し、互いに行き来していたことが記されています。渡り廊下は二人を結ぶ道、壺庭は二人の邂逅を取り持つ美しい背景となっています。定子も一条も、そして清少納言たち女房も、この時をどれほど待ち望んでいたことでしょう。
百日の儀を無事に終えた後の2月20日頃、その渡り廊下の西側の間で天皇は笛を奏で、指南役の藤原高遠と共にめでたい高砂の曲を繰り返し吹き続けます。定子と会えない間に何度も練習し、上達した演奏の腕前を定子に聞かせたかったのでしょう。女房たちも御簾近くまで集まって拝見し、感無量の思いです。そこに記される、「『芹摘みし』などおぼゆる事こそなけれ」という言葉は、諸注釈書の引く和歌説話によれば、「芹摘みし」で始まる古歌の下の句「心にものは思はざりけむ」が現在の不幸を嘆く意味になるので、この時までは、そんな思いをすることがなかったと言っていることになります。実は、長保2年2月25日に彰子が中宮に立ち、定子は皇后に変えられるという事態が起きます。この章段に描かれているのは、日本史上初めての二后並立が道長の圧力によって断行される直前の、定子が一条天皇の唯一の后であった最後の一時なのでした。
さて、その後、天皇はこっそりとおかしな曲を吹き出します。それは、宮中で評判の粗野な蔵人のことを揶揄して作られた歌でした。清少納言も図に乗って、もっと大きな音で吹くようにと天皇をけし掛けます。本人が聞いたらまずいからと躊躇していた天皇ですが、その人物が宮中にいないのを確認すると、今度はおおっぴらにその曲を吹き出しました。
一条天皇はこの時21歳、4歳年上の定子にリードされがちだったかつての少年天皇は、為政者としての試練を乗り越えて一回りも二回りも大きく成長していました。一方、定子は一族の不運に弄ばれ、身体的にも精神的にも疲弊しています。天皇はそんな妻をいたわり、少年時代のような茶目っ気を見せてくれているのです。青年天皇の自信に満ちた姿がクローズアップされるこの段には、肝心の定子の姿が実際に描写されることはありません。今内裏で作者がとらえた一条天皇は、この時定子を支えてくれるもっとも重要な人物なのでした。