タイプライターに魅せられた男たち・第64回

谷村貞治(4)

筆者:
2012年12月13日

1936年5月29日、帝国議会は自動車製造事業法を可決、即日公布しました。この法律は、フォードやゼネラル・モータースを日本から追い出し、国産自動車の製造を促進するためのものでしたが、一方で、外国資本を日本から締めだそうとしているのだと、諸外国からは受け取られました。フォルカート兄弟社においても、それは同様で、早々に日瑞貿易から、資本および人員の引き揚げを決定してしまいました。

日瑞貿易は、会社としては存続することになったものの、もはやスイスとの貿易の拡大は見込めず、事業規模を縮小することになりました。とりあえず、友好国ドイツからカメラ等の輸入をおこなうことで、貿易事業を継続できそうでしたが、日瑞工作所の処遇をどうするかが問題となりました。このゴタゴタの中、谷村は独立を決意します。日瑞工作所を辞職した谷村は、小料理屋をたたんだ内藤とともに、1937年6月1日、蒲田に新興製作所を設立しました。ただし、工場用地は取得したものの、まだ建物はなく、500坪ほどの敷地に、門と看板と大きな郵便箱を掛けただけの創業でした。

テレタイプ社の「Kleinschmidt Perforator」

テレタイプ社の「Kleinschmidt Perforator」

新興製作所で谷村は、「Kleinschmidt Perforator」のコピーモデルを製造することにしました。「Kleinschmidt Perforator」は、クラインシュミット・エレクトリック社が開発したモールス送信機で、タイプライター型のキーを押すと、対応する鑽孔が紙テープに、順に開けられていくものでした。2列の鑽孔テープは、電流のON・OFFを表していて、上下の鑽孔が同じ列に並んでいる場合はモールス符号の「・」(短点)を、下の鑽孔が上の鑽孔の1列右に開いている場合はモールス符号の「-」(長点)を、それぞれ意味していました。すなわち、「Kleinschmidt Perforator」の鑽孔テープを、専用の読取送信機にかけると、受信側ではモールス符号として受信されるわけです。

この頃、「Kleinschmidt Perforator」は、テレタイプ社が製造販売しており、特許の多くは期限切れになっていたものの、残りの特許は、テレタイプ社の親会社であるウェスタン・エレクトリック社が押さえていました。けれども、ウェスタン・エレクトリック社の特許権は、満洲国には及んでいませんでした。谷村はここに目をつけたのです。アメリカからの輸入が途絶えているとは言え、「Kleinschmidt Perforator」のコピーモデルを、新興製作所が日本国内で製造販売するのは、特許が全て切れてしまうまでは、多少、問題がありそうでした。しかも、日本国内の電信機受注は、ほぼ黒沢商店の独占状態にあって、新興製作所が新規に参入する余地は、あまり残されていません。しかし、満洲国ならば、まだチャンスがあります。電信機の需要も、これからどんどん増えていくはずです。

谷村は内藤とともに、ソウル経由で、奉天からハルピンへと、満洲各地の電信局や、電信関係の役所を駆けずり回りました。そこで、新興製作所の「Kleinschmidt Perforator」を売り込んでまわったのです。蒲田の工場も建っていないのに、外地からの注文を受けてまわったのです。

谷村貞治(5)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。