1936年5月29日、帝国議会は自動車製造事業法を可決、即日公布しました。この法律は、フォードやゼネラル・モータースを日本から追い出し、国産自動車の製造を促進するためのものでしたが、一方で、外国資本を日本から締めだそうとしているのだと、諸外国からは受け取られました。フォルカート兄弟社においても、それは同様で、早々に日瑞貿易から、資本および人員の引き揚げを決定してしまいました。
日瑞貿易は、会社としては存続することになったものの、もはやスイスとの貿易の拡大は見込めず、事業規模を縮小することになりました。とりあえず、友好国ドイツからカメラ等の輸入をおこなうことで、貿易事業を継続できそうでしたが、日瑞工作所の処遇をどうするかが問題となりました。このゴタゴタの中、谷村は独立を決意します。日瑞工作所を辞職した谷村は、小料理屋をたたんだ内藤とともに、1937年6月1日、蒲田に新興製作所を設立しました。ただし、工場用地は取得したものの、まだ建物はなく、500坪ほどの敷地に、門と看板と大きな郵便箱を掛けただけの創業でした。
新興製作所で谷村は、「Kleinschmidt Perforator」のコピーモデルを製造することにしました。「Kleinschmidt Perforator」は、クラインシュミット・エレクトリック社が開発したモールス送信機で、タイプライター型のキーを押すと、対応する鑽孔が紙テープに、順に開けられていくものでした。2列の鑽孔テープは、電流のON・OFFを表していて、上下の鑽孔が同じ列に並んでいる場合はモールス符号の「・」(短点)を、下の鑽孔が上の鑽孔の1列右に開いている場合はモールス符号の「-」(長点)を、それぞれ意味していました。すなわち、「Kleinschmidt Perforator」の鑽孔テープを、専用の読取送信機にかけると、受信側ではモールス符号として受信されるわけです。
この頃、「Kleinschmidt Perforator」は、テレタイプ社が製造販売しており、特許の多くは期限切れになっていたものの、残りの特許は、テレタイプ社の親会社であるウェスタン・エレクトリック社が押さえていました。けれども、ウェスタン・エレクトリック社の特許権は、満洲国には及んでいませんでした。谷村はここに目をつけたのです。アメリカからの輸入が途絶えているとは言え、「Kleinschmidt Perforator」のコピーモデルを、新興製作所が日本国内で製造販売するのは、特許が全て切れてしまうまでは、多少、問題がありそうでした。しかも、日本国内の電信機受注は、ほぼ黒沢商店の独占状態にあって、新興製作所が新規に参入する余地は、あまり残されていません。しかし、満洲国ならば、まだチャンスがあります。電信機の需要も、これからどんどん増えていくはずです。
谷村は内藤とともに、ソウル経由で、奉天からハルピンへと、満洲各地の電信局や、電信関係の役所を駆けずり回りました。そこで、新興製作所の「Kleinschmidt Perforator」を売り込んでまわったのです。蒲田の工場も建っていないのに、外地からの注文を受けてまわったのです。
(谷村貞治(5)に続く)