タイプライターに魅せられた男たち・第65回

谷村貞治(5)

筆者:
2012年12月20日

満洲から戻った谷村と内藤は、さっそく新興製作所の工場を整備しはじめました。すでに満洲や晋北から「Kleinschmidt Perforator」の注文が入りはじめていて、すぐにでも生産にかからなければいけない状況だったのです。谷村は、日瑞工作所から工員を引き抜き、生産体制を固めていきました。一方、谷村が抜けた後の日瑞工作所は、その後、日瑞貿易の傘下を離れ、スイス(瑞西)の「瑞」を大東亜の「東」に変えて、社名を日東製作所と改称しながら、やはり「Kleinschmidt Perforator」などの電信機を製造していました。この時のことを、谷村は、のちにこう回想しています。

私の去ったあとの日瑞工場は時節柄名を日東製作所と改めていましたが、もともとこの工場の製品は私自身の手で創めたものであり、新興製作所が発足すると同時に当然同じ製品で競争するという宿命に置かれた。国産電信機は時勢の寵児となるに従って、新興製作所は特に外地の需要に迎えられてどんどん伸び、一年足らずで工場設備、人員を倍以上も拡大して、生産量はもとの日瑞、日東を追い越したばかりでなく、私の電信機は日瑞時代より技術的に二歩も三歩も前進していましたので、技術の面でも日東を抑えてぐうの音も出ないようにしてやりました。

とは言うものの、実は、新興製作所に負けず劣らず、日東製作所も増産を続けていました。盧溝橋事件をきっかけとする中国大陸への軍事展開の結果、大量の軍需が生じていて、電信機の需要も増大し続けていたのです。

1941年12月8日、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、日米は開戦しました。この頃、蒲田には大小さまざまな工場が立ち並び、新興製作所を含めて、その多くが陸海軍の管理工場に指定されていました。谷村は内藤とともに、奉天や北京に「Kleinschmidt Perforator」を納入しつつ、さらなる軍需に応えるべく、増産に次ぐ増産を重ねていました。ちなみに内藤は、この頃すでに谷村昌子と名乗っていたのですが、1942年8月、正式に谷村と結婚しています。

それにしても人手が足りません。電信機の注文がどんどん舞い込んでくるのに、若い働き手が軍に次々と召集されていってしまいます。東京で働き手を集めるのは、もはや無理だと悟った谷村は、故郷の新堀村や石鳥谷町に働き手を募りました。そうしたところ、花巻町の町役場から、勤労報国隊を100人ばかり送りたい、との話が舞い込みました。企業整備令で職を失った中小商工業者が、花巻にはあふれていたのです。ただし、この話にはウラがありました。蒲田の新興製作所で技術を身につけた勤労報国隊を、何ヶ月かしたら順次、花巻に送り返し、花巻で部品製造をさせてほしい、というのです。ありていに言えば、新興製作所の分工場を花巻に建ててほしい、というのです。谷村は悩みました。働き手は欲しいのですが、花巻に分工場を建てたところで、経営がうまくいくとは思えなかったのです。

谷村貞治(6)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。