思ったよりも盛り上がってくれたので、1問目が終わってから続けて2問目に。今度は、個々の漢字そのものは、先ほどより易しめにしてみた。文がなんとなくつながっているようにはしてある。
背黄青鸚哥が小豆を喰って囀って打っ魂消た。
このように漢字は少し簡単にしたが、読みが難しめで、いわゆる常識の範囲を超えていることだろう(日常的には辞書で調べられれば十分なもの)。授業ですでに取り扱った例も含まれているかもしれないが、忘れている可能性が大だ。なお、「鸚」は、出題も手書きだったので、この辺りのどこまでが一文字なのか不安そうで聞いてきた。そのため、合字、分字などこの時点で異分析が起こるといけないので、確認しておいた。「名字でこういうの」と、「櫻」と関係を感じ取っていると語る男子学生も後で現れた。
背黄青鸚哥 > せきせいいんこ >
世紀世印個 > せきせいいんこ
この班は、3人目の素直さのある音訳になったお陰で、元に戻れたのである。機転といえようか。ほかの班はどうだろう。
背黄青鸚哥 > せきあおえいか >
背木青英司 > せきせいいんこ
「司」は「可」のイメージからだろう。これも、音訓を交替しながら、流れでなんと戻れたのであった。漢字の表意性、字体の複雑性、それらの柔軟性が絡んで、変化の歴史的な原理を短期間に再現してくれる面がある。
別の班は、意外な方向にいったんは進んでいく。
背黄青鸚哥 > せきせいいんこ >
雪白精 > ゆきしろせいいんこ せきせいいんこ
ついには、臨時の形声文字による造字が現れた。ベトナムのチュノムのようだが、かつての国字や国訓にはこのたぐいもあった。「鮟鱇」のようにそれらを交えて定着したものもある。前回のような類推読みがなされることを見越したうえだとすれば高度な技術だ。そして次の人は、その初見であるはずの「個人文字」を、実際にきちんと「いんこ」と読めていたのが素晴らしい。
さらに別の班は、次のように転訛していった。
背黄青鸚哥 > はいおうせいおうか >
灰王聖王加 > はいおうせいおうか
2人目が苦し紛れからか音読みで5字の読みを揃えてしまった。ここまで変わると、さすがにもう次からの人は戻せなかった。意味未詳ながら語呂が良い「はいおうせいおうか」は、当て字を経ても語形(発音)がきちんと維持され、立派な新熟語のようなものが生まれた。しかし、採点時には、「せい」にだけ、部分点が奇跡的についたのが愛嬌がありかえって可笑しかった。