1901年1月、山下は4年9ヶ月に渡る在倫敦帝国領事館での任を終え、日本に帰国しました。帰国した山下を待っていたのは、縁談でした。あっという間に、11歳年下の瓜生千代との結婚が決まりましたが、ここで山下は両親との別居を強く主張、当時としては珍しく、夫婦2人だけでの生活が始まりました。山下は、のちにこう語っています。
嫁と姑との間柄は年齢に於いても、20年30年の差があるのであるから、ものごとの考え方ないしは趣味において大いなる差があるのは当然である。しかし一軒の家に朝夕居を共にして行かねばならぬのであるから、どちかかがその趣味嗜好などを曲げねば一家の平和が保たれぬわけである。そこで多くの場合、嫁の方が自分のありのままの性質をためて、きらいなものも結構ですといい、ほしいものもいりませんということもある。これが単に食物や室のかざりつけ、台所の仕事くらいならば、まだ忍び得られるが、若夫婦の間の真の情愛を発露すれば、多くは姑の感情を害し、かえって一家に風波を起すもととなることが多いので、親の前では言葉少く疎遠らしく暮す若夫婦も少くない。甚しきにいたると、若夫婦間における家庭の温味が作られ得ないがため、男は夜遊びをはじめ、とかく外に友達をもとめて、誘惑にかかる。それがまためぐり来って一家の平和を害する。嫁の健康はそれがためそこない、精神はみだされるというような実例は、日本にはなかなか多い。
また子供の教育に至ってはもっともはげしい弊がある。子供のわがままを制し、しつけをよくせんがためには、母親は心を鬼にしても、強く子供のわがままにうち勝たねばならぬことが多い。しかしこれを実行すると、多くの場合、姑がそっと菓子などをくれて「これはお母さんにはないしょだよ。」といって子供のきげんをとることなどもある。このような悪いならわしによって、大切な教育がうちこわされるのみならず、母親に告ぐることの出来ない内証ごとのあることを教えられたり、また母親は子供の前では涙を流して悲しみの情をあらわしながら、姑の前に出ると笑顔をつくってうそを言ったりする。その表裏のある実例を赤児の時から事実を示して教えられる。かくの如き家庭に育った子供が長ずるに及んで、平気でうそをいい、表裏のある行をなすに至るのは当然ではあるまいか。
子供の教育が日本において甚しく欧米に劣っているのは事実である。かくの如き表裏あることを余儀なくされる事情の家庭に育つということが、その理由の主たるものではあるまいか。
1901年6月、山下は、副領事への昇進を蹴って、外務省を退官しました。外務省に勤める限り、世界中を転々と暮らすことになるのは仕方のないことです。しかし山下は、自分たち夫婦の子供を、欧米ではなく、あくまで日本で育てたかったのです。両親と別居して夫婦2人で暮らしていく、と決めた以上、日本で子供を育てるためには、外務省を離れるしかないと考えたのです。住友家総理事となっていた鈴木からヘッドハンティングを受けていたこともあり、山下は、住友神戸支店への転職を決意しました。住友神戸支店での山下の役職は、支配人代理、いわゆる副支店長でした。1902年5月には長男の文雄が生まれ、夫婦2人だけだった山下家は、3人に増えて賑やかになりました。
(山下芳太郎(7)に続く)