タイプライターに魅せられた男たち・第152回

山下芳太郎(7)

筆者:
2014年10月16日

1904年2月8日、旅順港で戦端を開いた日本とロシアは、日露戦争に突入しました。山下は、4月20日に非常召集を受け、松山の帝国陸軍第11師団第22連隊に入営しました。第22連隊は、5月21日に高浜港を出港、5月24日に遼東半島の張家屯付近に上陸、金州から大連へと進軍しました。6月6日、乃木希典の指揮下に入った第11師団は、旅順へと向かいます。しかし、ロシア軍の砲火で進軍はままならず、やっとのことで松嵐溝に到達したのが7月30日、ここから、難攻不落の旅順要塞を攻略しなければならなかったのです。

『明治三十七八海戦史』第2巻(春陽堂、1909年11月)より旅順要塞攻囲進捗一覧図
『明治三十七八海戦史』第2巻(春陽堂、1909年11月)より
旅順要塞攻囲進捗一覧図

第11師団は、8月6日から9日にかけ、旅順要塞の東側にある大孤山と小孤山に進軍、山頂を占領しました。大孤山の山頂から、旅順要塞の東鶏冠山砲台まで、直線距離で1700メートル。8月18日から25日にかけて、第11師団は東鶏冠山に総攻撃をかけましたが、しかし、総員の3分の2が戦死傷するという、完全な敗北に終わります。強固な旅順要塞に対しては、突撃戦による突破は不可能であり、塹壕戦による攻略に転換せざるを得ませんでした。兵員補充を受けつつ第22連隊は、塹壕とトンネルとを掘り進め、10月27日にロシア軍の地下壕に接触します。この結果、両軍はいきなり、手榴弾と機関砲の飛び交う肉弾戦に突入しました。10月31日までに第22連隊は、ロシア軍の地下壕の一部を確保したものの、総員の3分の1にあたる539名の戦死傷者を出しました。戦局が膠着状態となった12月2日、両軍は一時休戦し、赤十字旗を掲げて、死体の回収をおこないました。その間も第22連隊はトンネルを掘り進め、そして12月18日、再々度の総攻撃をおこないます。ロシア軍の胸墻や外壕を爆破、爆破孔に射撃陣地を構築し、大量の爆薬と手榴弾を投げ込んで、東鶏冠山の北堡塁を制圧しました。さらには、二龍山を攻撃中の第9師団を援護し、12月28日には二龍山堡塁も占領に成功しました。

1905年1月1日、ロシア軍の旅順要塞司令官ステッセル(Анатолий Михайлович Стессель)が降伏、旅順は陥落しました。山下が所属する第11師団は、1月13日、旅順への入城式をおこない、そして1月20日には、次の戦地である奉天に向けて出発しました。気温がマイナス10℃を下回る冬の遼東半島から、さらに北へと進軍することになったのです。

山下芳太郎(8)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。