1904年2月8日、旅順港で戦端を開いた日本とロシアは、日露戦争に突入しました。山下は、4月20日に非常召集を受け、松山の帝国陸軍第11師団第22連隊に入営しました。第22連隊は、5月21日に高浜港を出港、5月24日に遼東半島の張家屯付近に上陸、金州から大連へと進軍しました。6月6日、乃木希典の指揮下に入った第11師団は、旅順へと向かいます。しかし、ロシア軍の砲火で進軍はままならず、やっとのことで松嵐溝に到達したのが7月30日、ここから、難攻不落の旅順要塞を攻略しなければならなかったのです。
第11師団は、8月6日から9日にかけ、旅順要塞の東側にある大孤山と小孤山に進軍、山頂を占領しました。大孤山の山頂から、旅順要塞の東鶏冠山砲台まで、直線距離で1700メートル。8月18日から25日にかけて、第11師団は東鶏冠山に総攻撃をかけましたが、しかし、総員の3分の2が戦死傷するという、完全な敗北に終わります。強固な旅順要塞に対しては、突撃戦による突破は不可能であり、塹壕戦による攻略に転換せざるを得ませんでした。兵員補充を受けつつ第22連隊は、塹壕とトンネルとを掘り進め、10月27日にロシア軍の地下壕に接触します。この結果、両軍はいきなり、手榴弾と機関砲の飛び交う肉弾戦に突入しました。10月31日までに第22連隊は、ロシア軍の地下壕の一部を確保したものの、総員の3分の1にあたる539名の戦死傷者を出しました。戦局が膠着状態となった12月2日、両軍は一時休戦し、赤十字旗を掲げて、死体の回収をおこないました。その間も第22連隊はトンネルを掘り進め、そして12月18日、再々度の総攻撃をおこないます。ロシア軍の胸墻や外壕を爆破、爆破孔に射撃陣地を構築し、大量の爆薬と手榴弾を投げ込んで、東鶏冠山の北堡塁を制圧しました。さらには、二龍山を攻撃中の第9師団を援護し、12月28日には二龍山堡塁も占領に成功しました。
1905年1月1日、ロシア軍の旅順要塞司令官ステッセル(Анатолий Михайлович Стессель)が降伏、旅順は陥落しました。山下が所属する第11師団は、1月13日、旅順への入城式をおこない、そして1月20日には、次の戦地である奉天に向けて出発しました。気温がマイナス10℃を下回る冬の遼東半島から、さらに北へと進軍することになったのです。
(山下芳太郎(8)に続く)