1923年9月1日の正午前、関東地方を大規模な地震が襲いました。関東大震災です。黒沢自身はケガもなく助かったものの、黒沢商店は、銀座本店も蒲田工場も大きな被害を受けました。特に蒲田工場の各建物は、柱に亀裂が入ってしまったり屋根が抜け落ちたりして、取り壊しを余議なくされたのです。黒沢のショックは大きく、一時は廃業を考えるほどでした。ただ、銀座本店は大地震に耐えて残っており、輸入品のカタログ販売ならば、即座に再開可能でした。当時、黒沢商店の支配人だった田中啓次郎は、この時の様子を、のちにこう回想しています(『日本事務器50年のあゆみ』5頁)。
大震災の被害をモロに蒙って、黒沢商店は店も工場もことごとく失ってしまった。形骸ばかりは残ったが資産はすべて灰に帰した。店主にとってそのショックは大きかったと思う。冷静に復興のメドをたてるにしては被害も大きく打撃があまりにも大きすぎたのだ。
こうなると、そのまま従業員をかかえているのは店主として大きい負担であったにちがいない。とりわけ高給者ほど負担が大きい。そして、店主がそうした負担を感じていることは、直接間接にわれわれの耳に達するのだった。私は、給料などはともかく、復興に努力したいと申し入れたのだが、その真意は店主には通じなかったように思う。結局、私は、店主に負担をかけたくないという理由だけから退店を決意したわけだ。その年の暮であった。
震災復興のための低利貸付を受けた黒沢は、リストラを敢行しました。低賃金の者を残して、カタログ販売の営業と蒲田工場の再建設に従事させ、高給者を切り捨てたのです。それは、黒沢にとっても苦渋の選択でした。
黒沢商店をリストラされた者の多くは、元支配人の田中を頼って、1924年2月に日本事務器商会を設立しました。その中に、タイプライターの販売をおこなっていた八城勘二がいました。八城は、日本事務器商会でもL・C・スミス&ブラザーズ社のタイプライターを扱わせてほしい、と黒沢に申し入れたのですが、黒沢は「独力でやりなさい」とにべもなく断っています。その結果、日本事務器商会では、「Underwood Standard Typewriter No.5」と、それをカナモジカイ向けに改造した横書きカタカナ・タイプライターを輸入販売し、黒沢商店とは差別化をはかることにしました。
一方、黒沢商店は、蒲田工場の再建に全力を尽くすとともに、カタログ販売で扱う品目を増やしていきました。1926年1月には、L・C・スミス&ブラザーズ社とコロナ社が合併したのを機に、「Corona Portable」も扱うことにしました。さらには、これらをカナモジカイ向けに改造した横書きカタカナ・タイプライターも、販売を開始しました。こうして、黒沢商店は着々と復興を遂げていったのです。
(黒沢貞次郎(11)に続く)