1928年11月17日、黒沢は緑綬褒章を授与されました。カタカナ・タイプライターの製作とその事業が、衆民の模範として認められたのです。この頃、黒沢は、逓信省の島田新次郎や鈴木寿伝次らと共に、遠隔タイプライターの開発をおこなっていました。東京中央電信局では、すでに、モークラム・クラインシュミット社の『テレタイプ』を、カタカナ縦書きに改造した「和文印刷電信機」を運用していました。島田は、これを国産化したいと考えていたのです。それに向けて、黒沢は、逓信省出身の技術者である松尾俊太郎を、黒沢商店に迎え入れていました。
1932年7月、黒沢商店を含む6社は、逓信省から「和文印刷電信機」の設計書提出を依頼されました。当時の日本は、五族協和の夢と、満洲国への期待で沸き立っていましたが、それは同時に、アメリカと敵対する可能性を強く孕んでいました。そこで、「和文印刷電信機」の国産化に向けて、逓信省が動きだしたのです。期限は1932年12月末。黒沢は、松尾と共同で「和文印刷電信機」の設計をおこないつつ、まずはカタカナ・タイプライターの完全国産化に挑みました。「和文印刷電信機」のキー配列は「和文スミス」と全く同じだったので、「和文スミス」を国産化できれば、「和文印刷電信機」の国産化にもかなり寄与するはずです。すでに「和文スミス」の部品は、全て蒲田工場で生産できるようになっていました。あとは、スミス・コロナ社の特許に抵触しないよう、設計を少しだけ変更すれば、国産のカタカナ・タイプライターは十分、実現可能でした。
1933年1月、「和文印刷電信機」の設計書を提出した黒沢商店に対し、逓信省は試作機の製作を依頼しました。期限は1933年12月末です。黒沢は、「和文印刷電信機」の試作に合わせて、純国産カタカナ・タイプライター「アヅマタイプ」(AZMATYPE)を完成しました。デザイン的には「和文スミス」を改良したものですが、部品製造も組立工程も、全て日本国内でおこなったのです。
1933年12月26日、黒沢は、「和文印刷電信機」の試作機を、逓信省の島田に提出しました。しかし、島田は納得しませんでした。試作機は、長時間の動作に耐えられなかったのです。耐久性に欠けていたのです。タイプライターと印刷電信機とでは、必要とされる耐久性に、かなり大きな差があったのです。しかし、他社は試作機すら作ることができていません。「和文印刷電信機」の国産化は、黒沢商店に賭けるしかありませんでした。島田は、黒沢と共に、さらなる耐久性を持つ「和文印刷電信機」の開発を、続けていくことにしたのです。
(黒沢貞次郎(12)に続く)