タイプライターに魅せられた男たち・第56回

黒沢貞次郎(9)

筆者:
2012年10月18日
和文電報送達紙のタイプ打ち例文
和文電報送達紙のタイプ打ち例文

1917年4月、黒沢は「和文スミス」の試作機2台を、大阪中央電信局に納入しました。「L. C. Smith & Bros. Typewriter No.5」の活字棒とキートップを改造した、縦書きカタカナ・タイプライターです。濁点と半濁点は、直前の文字に重ね打ちされるようになっていましたが、しかし、プラテンの移動機構と連動していて、直後に空白ができるようになっていました。連動しないよう製作できたのですが、広島からの要求で、濁点や半濁点の直後に、1字分の空白をあけることにしたのです。なぜでしょう。

当時、和文電報は、市内が基本料金(15字まで)10銭で、以降5字まで毎に3銭追加、市外が基本料金(15字まで)20銭で、以降5字まで毎に5銭追加、という料金体系になっていました。端的に言えば、15字から5字刻みの料金体系だったのです。ただし、濁点は1字として数える、ということになっていました。濁点を1字として数える以上、縦書き1行30字の和文電報送達紙では、濁点の直後に空白をあけなければ、1行あたりの字数が狂ってしまいます。半濁点も同様です。

和文電報送達紙のタイプ打ち例文(末尾に濁点が来る場合)
和文電報送達紙のタイプ打ち例文(末尾に濁点が来る場合)

この点を考慮して、大阪中央電信局に納入された「和文スミス」では、濁点や半濁点の直後に空白ができるよう、わざわざプラテンの移動機構と連動させることにしたのです。また、30字でマージンベルが鳴るよう設定できる機能も、準備されていました。ただし、31字目に濁点が来た場合には、とりあえず行末で濁点を打っておいて、直後の行頭に手作業で空白を打つ、という運用が想定されていました。

大阪中央電信局に納入された「和文スミス」2台は、1917年6月21日から、和文モールス受信の実運用に供されました。成績はすこぶる良好で、すぐに追加注文が来ると同時に、他の電信局からも問い合わせが来ました。黒沢は、量産体制の確立を急ぐとともに、L・C・スミス&ブラザーズ社に部品を大量発注しました。同時に黒沢は、1点でも多くの部品を国産化できるよう、技術開発にも注力しました。

1918年2月、黒沢は、蒲田工場の建設に着手しました。二万坪の敷地に、工場、社員寮、公園、農園、幼稚園、小学校を有する「吾等が村」を、黒沢は、蒲田に作ろうとしていました。黒沢が「吾等が村」の理想としていたものを、機関紙『吾等が村』創刊号(1922年8月)から引用してみましょう。

広々とせる田面の内に限りなき太陽の慈光を受けて、何の不安もなくその日の労働に従事し、家に帰れば青々として育ちゆく蔬菜の勢よき様を楽しみ、心ゆく許りに大気を呼吸して自然に親しむは「吾等が村」の有様である。地は近郊の蒲田にあり、自然に親しみて文明に離れず、内は労働を愛して人生を楽しみ、田園と都市の恩恵は二つながらを享有する所に「吾等が村」の理想がある。現実を離れざる「ユートピア」これぞ吾等が村の使命である。

黒沢商店蒲田工場
黒沢商店蒲田工場

黒沢貞次郎(10)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。