覚醒剤所持容疑で夫が逮捕され、自分は失踪。子供を預けた相手は謎の人物。やがて夫と同じ覚醒剤所持容疑で逮捕、……と、酒井法子という「清純派」タレントが世間を騒がせている。この事件は日本のみならず、酒井法子の人気が高かった中国でも大きく報道されているという。
思い返せば、私が十年前に滞在していた中国人民大学で、日本語学科の学生たちと観たビデオが、彼女主演のドラマ『星の金貨』だった。いま、あの学生たちはこのニュースを知ってどう思うか。私に中国の様々な諺を教えてくれた張孝萍さんなら“人不可貌相,海水不可斗量”(海水の量をマスではかれないように人は見かけによらない)と嘆息するかもしれない。
「私の知ってる○○さんは……」のような言い方がある。当たり前のことだが、これは「平時」の言い方ではない。○○さんが何らかの事件を起こした後にかぎっての言い方である。
たとえば「私の見た兄さんは恐らく貴方方の見た兄さんと違っているでしょう。私の理解する兄さんも亦(また)貴方方の理解する兄さんではありますまい」というのは、兄さん(一郎)の神経の変調という事件の後に、兄さんの親友Hが弟(二郎)に送った手紙の一節である(夏目漱石『行人』1912-13)。
「あなたはまじめな人ですねぇ」とは言えるが、「あなたは私の前ではまじめな人ですねぇ」とはふつう言えない。もし言えば、「あなたがまじめな人格で、私の知らないところでもまじめかどうか。それはわからない」と思っていることが露わになるので失礼である。
同じことだが、「あの人は豪快な人だねえ」とは言えるが、「あの人はわれわれの前では豪快な人だねえ」とはなかなか言えない。これは「あの人が豪快なのは、取り繕っているだけだ」という強い含みを持っており、言えば「あの人」に対する完全な悪口になってしまう。
「あなたにもいろいろな面があるでしょうね」「あの人にも私たちの知らない部分があるでしょうね」という、よく考えてみれば当然至極のことでも、口に出せば、その場の空気を凍りつかせかねない発言となる。
つまり平時の、そして遊びではない会話では、「人(とりわけ会話の相手)が本来の人格を隠して、キャラクタを取り繕っている可能性」に言及するには、慎重な検討が必要である。「いま私と会話しているあなたは、何かを取り繕って会話しているわけではない。会話の中で感知されるあなたの性質は、あなたの人格の現れである」ということになっているのだし、もちろん話し手自身も「あなたとの会話には私も自分の人格を出して臨んでいるのであって、自分を取り繕ってなどいない」ということになっている。つまり「キャラクタなどというものはない」ということになっている。
だが、これはあくまで「~ということになっている」という決まり事に過ぎない。いったん「事件」が起これば、知人や近隣住民たちはこぞって「私の知ってる○○さんは、そんなことをする人ではありませんでした」とコメントする。「私の知ってる○○さん」のように、「○○さん」に「私の知ってる」という限定を付けてしまえるのは、取り繕いが露見し、もはやキャラクタの存在をあからさまにしてよくなっているからである。
キャラクタは、意のままにおおっぴらに変えて構わないもの(スタイル)ではないが、かといって根本的で変わりにくいもの(人格)でもない。状況に応じて結構変わってしまい、にもかかわらず、変えてはいけないことになっているものだ、ということはこれまで強調してきたことである(特に第4回)。
ここで言う「変えてはいけないことになっている」とは、「人格と同一ということになっている」ということであり、つまるところ「キャラクタなどというものはないことになっている」ということである。今回新しく述べたのはこの点である。
え? これまで述べてきたことと結局同じじゃないかって?
えーと。それじゃあ、今回は「私の知ってる○○さん」というフレーズの観察を通してもこれまで同様の結論が導けるということを示した、というところでどうです?
あのネ旦那、今回は連載1周年記念なんすヨ。堅いこと抜きでいきましょうヨ、旦那、ネ!