国が明治7年に小学校用地として、500坪以内の土地を無償で下げ渡す旨の太政官布告を出したため、各地で小学校建設は活性化しますが、その建築費や運営費の多くは寄付金に頼らざるを得ませんでした。前回ご紹介したのは、主に地元民がその費用の多くを負担した例でしたが、第24回でご紹介した「有馬学校」のように、華族が率先して多額の寄付金を出した事例も少なくはありませんでした。それに対し官からは御賞賜(ごしょうし=お褒めの物品をあたえること)があったといいます。
明治8年本所永倉町(現・墨田区緑町)に開校した「本所学校」の校舎建築費も、その多くが尾張徳川家16代当主・徳川義宜(よしのり)の寄付で賄われました。額は3000円【注1】といいますから、大卒相当の初任給が8円(明治13年)といわれる時代、現在の大卒初任給を20万円として価値を換算すると、7500万円もの拠出となります。さすが、殿様は太っ腹です。
東西南北の風見を設置した塔が特徴的な校舎ですが、東京曙新聞は「本所に新式小学校」の見出しで、次のような記事を載せています。
「学校の普請は万事ともに生徒の健康を害せざるやうにと注意して、両便へは臭気抜きをも附る位にし、又校中は是非とも靴をはく掟なるにより、貧乏者の小供等には靴形の上草履を銘々に渡し……」(明治8年9月18日。『新聞集成明治編年史』より。以下の引用も同史料による)
トイレや校舎内の環境に配慮した近代的な校舎のようです。実はこの学校には尾張徳川家の令嬢や最後の将軍・徳川慶喜の子息も通っていました(D. モルレー『学事巡視功程』)。学校は、殿様の子どもと靴を買えない貧困者の子どもが一緒に学ぶ、四民平等の新しい時代が到来したことを感じさせる象徴的存在でもあったのです。
明治10年に新幸町(現・港区新橋)、今の第一ホテル付近に開校した「桜田学校」は、「明治学校」同様の南京下見の2階建て木造校舎でした(ちなみに「明治学校」は青、「桜田学校」はあずき色のペンキが塗られていました)。
『港区教育史 上巻』(東京都港区教育委員会)によれば、新校舎建設資金には地元有志3831名の寄付金、約3857円が充てられました。単純に平均すると一人約1円の寄付となりますが、寄付金目録が記された奉加帳(ほうがちょう) には有栖川宮、三条実美、島津久光、大久保利通といった宮家や元勲21人が名を連ね、そういった方々の寄付金は相応に高額でした。ちなみに大久保利通は200円と記されています。
同じく明治10年、九段坂上(現・千代田区富士見町)に開校した「富士見女学校」の純和風2階建て校舎の建築費については、読売新聞が「女学校建設の寄付」の見出しで下記のごとく報道しています。
「富士見町一丁目へ女学校が出来るので、同町の華族桜井忠興君より百円、山県有朋君より百円、黒田長知君より百円、中御門経之君より七十円、一番町の木戸孝允君より百円、飯田町の有馬道純と鍋島直影の両君より五十円づゝ寄付されました」(明治10年5月1日)
寄付金の額まで新聞で公表されては少額ともいかず、華族様の出費もさぞかし大変でしたでしょうが、中には庶民でも殿様ばりの太っ腹な例もあります。
明治8年に深川北松代町(現・江東区亀戸)に開校した「丸山学校」は、50坪の敷地に53.5坪の建築物を建て、空き地には残らず桜を植え付け2500円の費用が掛かりました。その全額を一人の豪商・丸山伝右衛門が負担したと、東京曙新聞は伝えています。
「府下の人は各地と違って学問の何物たるを知らないの、学校の資本金を出すものがないのなんのといふことが、折々諸新聞紙に見えますが、中にはかういふ人もございます。なんと皆さん感心な咄しではございませんか」(明治8年7月23日)
こういった奇特な行為に触発され、東京の学校建設も盛んとなっていきました。ただしこの伝右衛門さん、大きな材木問屋を営んでいましたが、明治18年に破産閉店したとのことです。
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- 額は史料によって異なる場合がありますが、ここでは徳川義崇監修・徳川林政史研究所編『写真集 尾張徳川家の幕末維新』(吉川弘文館)を参照しました。
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