多くの有志者の協力を得て創設された学校ですが、その落成式や開校式はどのようなものだったのでしょう。明治13年に新校舎が落成した静岡県の岩科学校(重要文化財。今でも見学できます)には、門前に国旗を掲揚し、校舎を背景に来賓や工事関係者をはじめ100人以上もの人が参加したにぎやかな落成式の記念写真が残されています。東京でも似たような風景だったと推察させますが、双六では紙幅の制限もあり、国旗を描くことで落成式や開校式のシンボルとしたのではないかと考えられます。
ところで、国旗の掲揚自体は学校に限らずすでに東京では盛んに行われていました。お祭りにも日の丸の軒提灯を吊るしたほどでした[注]。近代教育の普及は国策でもあり、その具現である学校でも多くの行事で国旗が掲揚されたと思われます。絵図には前回とりあげた「本所学校」の他、3つの学校のコマに日の丸が描かれています。
本所松井町(現・墨田区千歳)の「東陽学校」は、「土屋学校」(明治6年に公立学校と認定)の校名を改称し、明治9年12月に新たに再出発した学校です。ベランダでは帽子をかぶった羽織袴の男性が日の丸の旗竿を支え、そのかたわらでは母娘とみられる二人が何やら語らっている様子です。何に驚いたか、袂(たもと)で口元を覆う母に比べ、新しい時代の幕開けに期待を寄せるような娘の姿が印象的です。絵図右下にも交差した2本の日の丸の旗が描かれています。
北本所表町(双六にうら町とあるのは間違い。現・墨田区東駒形)の「明徳学校」は、旧平戸藩松浦家の下屋敷跡に、秋田藩主だった佐竹家の第31代当主佐竹義脩(さたけ・よしなお)をはじめ、地元有志の協力を得て明治8年に開校しました。校名は、秋田藩の藩校・明徳館の名に由来して付けられたとのことです(『明徳校友会会報集大成』)。ベランダでは「明徳」と書かれた扁額(へんがく)の下、生徒と思しき人物が、2本の日の丸を平行に掲げています。
明治7年に開校した「市ヶ谷学校」は、明治8年に生徒増加のため市谷柳町(現・新宿区市谷柳町)の民家を買収し移転しました。右上にちらりと日の丸をのぞかせていますが、何といっても緑のアーチが目を引きます。これは当時、行幸や祝賀行事の際にはこのように門柱の上部を弓型にし、余すことなく草花で包み込む西洋風の門飾りにするのが流行していて、「市谷学校」もこのブームにのり来客を迎えているところなのです。小ぶりの提灯が華やかさを増すのに一役買っていますが、こういった風景は川柳に「提灯を 股へぶらりと 洋飾り」と詠まれもしました。
流行のラッコの毛皮の帽子をかぶり、ステッキを手にした洋装の男性と、靴をはいた羽織袴の男性は、式典に出席する来賓か生徒の父兄といったところでしょう。
実際の学校の式典の様子は、曙新聞が下記の如く伝えています。これは和風建築の新校舎が竣工した「番町学校」を取材した記事です。
「開校式には、日本全国図の軸を床に掲げ、左右に松竹梅を瑠璃色の鉢に植て飾られしは艶麗なる異花奇草よりも却て見所ある心地せられたり。午前十一時東京府知事式に臨れ、学務掛りの官員数名第三区々長これに従ひ、校長始め男女の教員五六名にて男女の生徒は四百名餘、それぞれの席に列し、教員はいずれも祝辞を朗読せし後、生徒等読書、運動の業をも一見の上、退校せられたるは、正午十二時なるべし。右開校の祝意を表して華族井伊直憲君より蒸籠十個を贈寄せられ、議官福羽美静君よりは左の歌を贈られたり・・」
(明治11年2月4日。『新聞集成明治編年史』)
この頃になると、擬洋風が少し飽きられ純和風が見直されるようになってきます。「番町学校」の校舎は玄関が唐破風造り、屋根は杮(こけら)葺きと純日本式で、講堂の花も昔ながらの松竹梅が西洋の草花より却って見所があると記者は感想を述べています。それにしても、床の間に墨蹟(ぼくせき)や花鳥風月の掛軸ではなく日本地図を掛けたところが、新教育の風を感じさせ面白いですね。
東京府知事をはじめ官員や区長などが来賓として参加する中、生徒が学校で学んだ成果を発表する場も設けられました。当時はまだ珍しかった「運動」も披露されたとありますから、絵図のような立ち幅跳びも実演されたのかもしれません。
約1時間の式典を終え、国学者の福羽美静(ふくば・びせい)からは校舎落成を寿ぎ和歌2首が贈られましたが、生徒にはやはり井伊家より贈られた蒸し菓子の方が格段に嬉しく感じられたことは間違いないでしょう。
*
- ただし、これが国旗の権威を傷つけるものとして問題となり、明治6年には日の丸の乱用を厳禁する布達が出されました(『新聞集成明治編年史』)。
* * *
◆画像の無断利用を固く禁じます。