地域語の経済と社会 ―方言みやげ・グッズとその周辺―

第252回 井上史雄さん:タイランナーの方言みやげ
Lanna Dialect Souvenirs in Chiang Mai, Thailand

筆者:
2013年5月4日

方言みやげには国による違いがあります。ずっと前に留学生に尋ねたら、「タイには方言みやげはない」という答でした。今回、タイ北部の古都チェンマイに行ったらありました。バンコクからの留学生が知らなかったのは、みやげものが最近できたからでしょう。

【写真1】ランナー文字のヘンリーネックシャツ
【写真1】ランナー文字のヘンリーネックシャツ
【写真2】ランナー文字
【写真2】ランナー文字(クリックで拡大)

言語観察のために、チェンマイの夜市に行きました。店頭のシャツに見慣れない文字が書いてありました。「何ですか」と聞きましたが、「分からない」という無責任な答え。円形を多く使うところは、ビルマ(ミャンマー)の文字に似ています。昔のタイ文字かと思って、実用も兼ねて買いました。暑いので翌日さっそく着て街を歩いていたら、話しかけてきた人がいました。「知っているか?これはタイランナーだ」といいます。聞いたことがありません。チェンマイの昔の文字なのでしょうか。

その夕方別の夜市に行ったら、黒のTシャツを売っていました。ランナータイと銘打って、字の読み方も書いてあります。別の店でも売っているかと歩き回って、戻ろうとしましたが、どの店だったかたどれなくなって、結局買いそびれました。残念です。

博物館で分かりました。ランナー文字だったのです。チェンマイ付近はかつてタイ王国と別のランナー王国でしたが、近代にタイ王国に統一され、王族もタイ王室に組み込まれました。近代の政策で、学校でタイ語・タイ文字を教えたことについても、展示がありました。タイ語と別の言語か、判別に迷いますが、タイ語とお互いにことばが通じるので、タイ方言の扱いです。シャツは「方言」みやげと言っていいでしょう。もっともこのシリーズは「地域語」についてですから、学問的に言語か方言かの問題は避けて通れます。

 隣国インドネシア、バリ島のバリ文字についても似ています。文字は寺院で見かけました。中年のガイドさんの話によると、「昔はインドネシア語だけを教えた時期があったが、今は小学校でふたたびバリ語とバリ文字を教えるようになった」ということでした。しかしみやげ店を丹念に見て回り、デジカメのバリ文字を見せて探し回りましたが、バリ文字のみやげものはありませんでした。文字のみやげを作らなくとも、手工芸品などが十分に売れるのでしょう。やっぱり「ことばには経済がからむ」と、意を強くしました。みやげものがあってもうれしいし、なくてもうれしい。楽天家というべきでしょうか。

筆者プロフィール

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics

井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。

(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

 

  • 井上 史雄(いのうえ・ふみお)

国立国語研究所客員教授。博士(文学)。専門は、社会言語学・方言学。研究テーマは、現代の「新方言」、方言イメージ、言語の市場価値など。
履歴・業績 //www.tufs.ac.jp/ts/personal/inouef/
英語論文 //dictionary.sanseido-publ.co.jp/affil/person/inoue_fumio/ 
「新方言」の唱導とその一連の研究に対して、第13回金田一京助博士記念賞を受賞。著書に『日本語ウォッチング』(岩波新書)『変わる方言 動く標準語』(ちくま新書)、『日本語の値段』(大修館)、『言語楽さんぽ』『計量的方言区画』『社会方言学論考―新方言の基盤』『経済言語学論考 言語・方言・敬語の値打ち』(以上、明治書院)、『辞典〈新しい日本語〉』(共著、東洋書林)などがある。

『日本語ウォッチング』『経済言語学論考  言語・方言・敬語の値打ち』

編集部から

皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。

方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載です。