漢字の現在

第214回 松江の地域文字 「淞」ほか

筆者:
2012年8月24日

島根県松江市に来た。山陰は、鳥取砂丘や出雲大社を訪れて以来となる。

夜、楽しい会の後で、寝床のある方角を目指して歩き出すと、ふと飲み屋の看板に記された字が目に止まった。「(金+兜)」で「かぶと」と読みもある。これは恐らく『新撰字鏡』にある「(金+兒)」と関連ある字だ。その平安時代の古辞書には、同訓字に「(金+甲)」、「(金+笠)」「(金+立)」も出ているのだが、奈良時代には「(金+立)」をカブトとして国訓で用いたと考えられている金石文での使用例や、「新訳華厳経音義私記」での「(金+甲)」(中国ではヨロイの意)に関する国訓カブトの注記も存在している。「(金+立)」からは、いわゆる「小学篇」の正体を垣間見ることができそうだ。「甲冑」で、ヨロイとカブトの訓義が日本で入れ替わったという話なども、思い出される。

かぶと 松江で。

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【 かぶと 松江で。「鷦」(ささき)という店の看板も近くにあった。】

それとも、「兜」は金属製だからと、店主が造字したものが暗合しただけだろうか。なんでそんな古い字のことを知っているのかと驚かれたが、コピーを取ってカードに手書きしていたお陰か偶然覚えていて、酔眼にも懐かしい。呑んでもこのくらいまでは再現できるものだ。形声は偶然の一致がしばしばあるだろうが、こういう偏の付加や会意はそれよりも少ないといえるだろうか。

淞北台

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【淞北台】

松江市内には淞北(しょうほく)台という地名がある。全国の地名を通覧していた頃から気になっていたので、路線バスに乗り込む。バス停名にもあった。「淞北台団地入口」に着き、降りようとするとこの先に「淞北台団地」もあることに気づく。確かに、そこでは、国内で日常では、ほぼここにしか見られない「淞」という字が生活の中で自然に用いられていた。島根大学の「淞風祭」という学園祭は、あいにくこの年には新型インフルエンザの影響により開催中止となってしまったそうだ。これは、宍道湖を擁する水郷である松江の「松」に「さんずい」を付けたものだろうか。あるいは、「江」の「さんずい」を合字したものか。中国にある漢字だが、むろんそこでの字義は江蘇省の太湖から長江に流れる「呉淞(ウースン)江」(淞江)を指すだけである。

松江で。淞北台

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【松江で。淞北台】

近世前後には、隅田川に「濹」(ボク)、淀川に「(シ+奠)」(デン・テン)、桂川に「(さんずい+桂)」、そして相模には「湘」、四日市には「泗」、徳島には「渭」など、各地で「さんずい」の漢字が造られたり当てられたりしたものだった。漢学者たちが雅を求める余り、中国めかそうとしてかえって和臭を強めたものである。それがまた日本らしい地域色を示す地域文字となったものもある。

潟は、やはり氵+写だった。松江で。

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【 潟は、やはり氵+写だった。松江で。】

潟の臼が「旧」に。

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【 潟の臼が「旧」に。新潟などと同様に異体字にも段階がある。煙る宍道湖の近くで。】

松江市内には、東奥谷町で「ひがしおくだにちょう」もあった。「谷」を「たに」、「町」を「チョウ」と読むのは、いかにも西日本である。とくに「や」という訓読みの比率の低い土地柄である。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。