1927年10月、谷村は日瑞工作所にいました。サミュル・サミュル商会との交渉の結果、日瑞貿易は芝園橋に日瑞工作所を設立し、さらに大森町山谷に工作所を移して、電信機の研究開発をおこなうことにしたのです。谷村も日瑞工作所に移り、そこで「和文印刷電信機」の開発をおこなっていました。モークラム・クラインシュミット社からの輸入業務は、日瑞貿易が継承しましたが、「和文印刷電信機」の輸入は滞りぎみでした。
谷村は、「和文印刷電信機」を国産化するために、数々の研究をおこないました。中でも、材料となる金属の強度や展性をどうするかという問題に対しては、東北帝国大学の金属材料研究所に教えを請い、仙台にまで通いました。そうして1929年6月7日、「和文印刷電信用六単位鍵盤鑽孔機」の特許を出願したのです。この特許は1930年4月7日に成立し、谷村はいよいよ「和文印刷電信機」の送信機部分の生産を、開始できる手はずとなりました。満洲国建国の興奮も冷めやらぬ1932年7月、日瑞工作所を含む6社は、逓信省から「和文印刷電信機」の設計書提出を依頼されました。すでに送信機の設計を完成していた谷村は、受信機の設計にも意欲的でしたが、現実には難しい問題がありました。
日瑞工作所の親会社である日瑞貿易は、その名の通り、日本とスイス(瑞西)との貿易をおこなう会社で、ヴィンターツールに本社を置くフォルカート兄弟社(Gebrüder Volkart)の日本法人でした。したがって、「和文印刷電信機」を欧米から輸入すれば、それは親会社の儲けにもなります。しかし、日本国内で生産すると、日瑞貿易もフォルカート兄弟社も儲からないのです。しかも、「和文印刷電信機」の受信機に関しては、この時点では、谷村にもクリアすべき問題が山積みでした。逓信省から与えられた半年間で、ちゃんと動作する受信機を開発するだけの力が、実際のところ、谷村には足りなかったのです。結局、日瑞工作所は、逓信省への「和文印刷電信機」の設計書提出を、断念しました。
この少し前、谷村は、子連れで再婚していました。子供は新しい母親になついたものの、谷村自身は、新しい妻との折り合いが、あまりうまくいっていませんでした。谷村は、工作所近くの小料理屋の美人おかみに入れ上げていて、自宅に帰らないこともしばしばだったからです。おかみの名は内藤トキ。谷村の5歳下の女性でした。
(谷村貞治(4)に続く)