この頃、サミュル・サミュル商会は、逓信省から「和文印刷電信機」の開発を請け負っていました。欧米の『テレタイプ』を、何とかカタカナ縦書きで、使えるようにしたいというのです。ただし、キー配列は「和文スミス」と同一にすること、というのが逓信省の条件でした。サミュル・サミュル商社は、逓信省から内山初太郎などの技師を引き抜き、ニューヨーク州ロングアイランドのクラインシュミット・エレクトリック社と合同で、「和文印刷電信機」の開発にあたっていました。
1924年8月に妻を亡くした谷村は、サミュル・サミュル商会の仕事に、のめり込んでいきました。谷村は当時、遠隔タイプライターに関する知識はほとんどなく、クラインシュミット・エレクトリック社の技術を全力で吸収していきました。けれども、欧文の遠隔タイプライターで使われている技術を、そのまま「和文印刷電信機」に使うわけにはいきません。「和文スミス」は42キーなので、5穴の鑽孔テープでは、全てのキーを1対1に符号化することができないのです。少なくとも6穴の鑽孔テープを使わなければならない、というのが、クラインシュミット・エレクトリック社の結論でした。
1925年1月1日、クラインシュミット・エレクトリック社は、シカゴのモークラム社と合併して、モークラム・クラインシュミット社になりました。1925年3月、モークラム・クラインシュミット社は「和文印刷電信機」の試作機2台を完成、サミュル・サミュル商会経由で、逓信省に納入しました。逓信省では、この試作機2台の評価試験をおこなった上で、東京中央電信局と大阪中央電信局に1台ずつ配置し、1925年4月9日に実地での通信実験をおこないました。実験結果はおおむね良好で、逓信省はサミュル・サミュル商会に、「和文印刷電信機」50台を発注したのです。
しかし、モークラム・クラインシュミット社は、期日の1926年3月になっても、「和文印刷電信機」の量産品を完成できませんでした。サミュル・サミュル商会は、逓信省に違約金を支払って発注契約を解約、その上で1926年5月には日本撤退を決定します。「和文印刷電信機」に関する業務は、大阪の日瑞貿易に移譲されることとなりました。谷村は、サミュル・サミュル商会の業務を日瑞貿易に継承すべく、東奔西走する羽目になったのです。
(谷村貞治(3)に続く)