前回笑話を素材文にした場合の問題解決型読解について紹介した。最終課題は「笑話になるように、ほかの解決策を考えなさい」である。念のため、素材文のあらすじと、素材文における「問題―解決」を再掲する(*)。
物語「くらのとびら」のあらすじ
おまぬけ村のお父さんとお母さんの話である。お父さんは、野良仕事をしている間に蔵のお金がドロボウに盗まれるのではないかと心配していた。そこで、お母さんに、家事をしながら蔵の扉を見張っているように命じた。お母さんは蔵の扉を見張っていたが、話し相手のお父さんがいないので退屈である。畑に行けばお父さんと話せるのだが、それでは蔵の扉を見張ることができない。そこで、お母さんは蔵の扉を取り外し、それを背負って畑に行くことにした。お父さんはお母さんが畑に来たのでびっくりしたが、お母さんが蔵の扉を見張っていることがわかったので安心した。野良仕事を終え、家に帰った二人はびっくりした。蔵のお金がすっかり盗まれていたからである。
〈問題と解決〉
◎お父さんにとっての問題と解決
お金を盗まれるのではないか⇒お母さんに蔵の扉を見張っていてもらう。
◎お母さんにとっての問題と解決
退屈である。しかし蔵の扉を見張らなければならない⇒蔵の扉を背負って畑に行く。
ポイントは、お父さんもお母さんも問題解決に大真面目に取り組んだつもりでいるのに、課題文のように「お金を盗まれてはならない」という大前提が崩れるか、新たな大問題が発生するように物語を書き換えることである。それができているかどうかが評価の対象であり、物語がおもしろいかどうかはそれほど重要ではない。
当たり前のことだが、こういった課題に決まった正答はない。そこで、フィンランドと日本の実践例から、解答パターンを五つに分類して紹介することにしよう。
①見張っていたら盗まれた
お母さんが蔵の扉「だけ」をずっと見張っていたために、ドロボウに蔵の壁を破られたり、窓を壊されたり、屋根をはずされたりしても気付かず、結局お金を盗まれてしまう――という解答パターンである。私の知るかぎり、フィンランドでも、日本でも、この解答パターンがいちばん多い。ただ、この場合は、お母さんにとっての「退屈である」という問題について、別の解決策を考える必要がある。お母さんにとって、蔵の扉を見張ることは退屈で仕方のないことなのだ。フィンランドでも、日本でも、ドロボウにお金を盗ませることにばかり熱中して、肝心のお母さんの問題を忘れてしまう場合が多い。その点を指摘すると、「お母さんは蔵の扉を見ているうちに楽しくなってきました。なんと蔵の扉がお母さんに話しかけてきたからです」などと、急にメルヘンな展開が始まったりするので、それはそれでおもしろい。
②ドロボウ登場
物語の挿絵には二人組のドロボウのシルエットが描かれている(*)。そこから「ドロボウは二人組である」ということがわかる。この事実を利用しないテはない。たとえばドロボウの一人がお母さんの話し相手になって退屈をまぎらわし、もう一人が蔵の壁を破ったり、窓を壊したり、屋根をはずしたりしてお金を盗む(お母さんは世間話と『扉を見張ることだけ』に熱中していて気付かない)――というような解答パターンがある。お母さんの問題も自然に解決されており、①の改良型ともいえる。
親切なドロボウがお母さんから事情を聞き、「かわりに蔵の扉を見張っていてあげましょう」と申し出る。お母さんはその提案をありがたく受け入れて畑に行き、結局お金を盗まれてしまう――というようなパターンもある。このあたりで、ちょっと別の問題の存在に気付く可能性があるのだが、これについては⑤で述べることにしよう。
③お母さん暴走
お母さんは「蔵の扉を見張る」という行動に疑問を抱く。なぜこんなつまらないことをやらなければならないのか?「そうそう、蔵の中にお金があるからいけないんだわ」とかなんとか言って、「ドロボウさ~ん」などとドロボウを呼び寄せ、蔵の中のお金を全部持っていってもらう。そして「もう扉を見張る必要はなくなったわ」とかなんとか言って、お父さんのいる畑に向かうのである。そしてお父さんも「そうか、見張る必要がなくなったか」などと嬉しそうに言うのである――こういった凄まじい破壊力の解答を、たまにフィンランドの教室で聞くことができる。けっこうおもしろい。
④見張っていたら枯れちゃった
お母さんの退屈をまぎらわすため、あるいはお母さんを信用できないために、お父さんも一緒に蔵の扉を見張ることになり、お父さんは野良仕事を一切しなくなってしまったために、畑の作物が全部枯れてしまう――というようなパターン。この物語の場合、フィンランドでも、日本でも、あまり新たな問題を発生させる余地がないようだ。
⑤余計なことに気付いちゃった
世の中には気がつかないほうが幸せなことがある。だが、そういうことに必ず気がついてしまう人間はいるものだ。なぜ蔵の扉を見張らなければならないのか? 扉にカギはないのか? ここで挿絵を見る。なんと、お母さんの背負っている扉には、大きくて頑丈そうな錠前がついているのである(*)。こんな立派な錠前が付いているんだったら、扉を見張る必要はないんじゃないか! そう、その通り。挿絵も含めてクリティカルによく読むと、この物語はちょっとおかしいのである。
お母さんが「錠前があるから大丈夫」と思って畑に行ったら、その間に錠前をこじあけられた/蔵の壁が破られた――というような解答パターンもあるが、これでは当たり前すぎて笑話にならない。お母さんかお父さんによる大真面目な問題解決が、直截的に大前提を崩したり、新たな大問題を引き起こしたりしていないと笑話にならないのである。
たとえば、②の二番目の解答パターンを改良する。親切なドロボウが「かわりに蔵の扉を見張っていてあげましょう」と申し出る。そのとき、「お金が盗まれていないかどうか、蔵の中を確かめてみましょう」と言って、お母さんに錠前を開けさせる。そのあと一応は錠前を閉めさせるのだが、ドロボウは「私が見張っている間も、ときどき蔵の中にちゃんとお金があるかどうか確かめてあげましょう」などと言って、お母さんから錠前のカギを預かってしまうのだ――クラスの中で錠前の存在に気付いた児童がいて、「蔵の扉を見張ること」の意味に疑義が差し挟まれると、全員の話し合いによってこういった解決策を考えていくことになる。ただ、笑話の場合は、あまり細部をクリティカルに詰めすぎると、どんどんつまらなくなっていくことがあるので難しいところだ。
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(*) 『フィンランド国語教科書 小学3年生』pp82-83 メルヴィ・バレ他著/北川達夫訳/経済界 2006年