人名用漢字の新字旧字

第87回 「肇」と「肇」

筆者:
2011年6月2日
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先月の5月25日で、人名用漢字は60歳になりました。そう、60年前の昭和26年5月25日、人名用漢字別表92字が内閣告示されたのです。この92字の中に、旧字の「」(左上が)が含まれていました。この日から、旧字の「」が、子供の名づけに使えるようになったのです。

実は、その11日前の昭和26年5月14日に、国語審議会は人名漢字に関する建議を発表していました。国語審議会は、子供の名づけに使える漢字を92字ふやすべく、この建議を発表したのです。この92字に含まれていたのは、しかし、旧字の「」(左上が)ではなく、新字の「肇」(左上が戸)でした。これに対し、5月25日に内閣告示された人名用漢字別表では、新字の「肇」ではなく、旧字の「」が官報に掲載されていました。国語審議会の意図とは微妙に異なり、旧字の「」が人名用漢字になってしまったのです。しかも、その後の官報でも、人名用漢字別表は訂正されなかったことから、旧字の「」が使い続けられることになりました。

ところが、昭和32年2月22日に琉球政府が告示した人名用漢字表92字には、新字の「肇」が収録されていました。沖縄では子供の名づけに新字の「肇」が使えるのに、本土では旧字の「」しか使えない、という不思議な事態になってしまったのです。しかし、この事態も、昭和47年5月15日に沖縄が日本に復帰した結果、旧字の「」に一本化されました。

昭和54年1月25日に発足した民事行政審議会では、旧字の「」が問題となりました。国語審議会が審議中の常用漢字表案では、たとえば「啓」が新字体になっているのに、人名用漢字の「」が旧字体ではおかしい、というのです。この問題をめぐって、民事行政審議会はモメました。選択肢の一つは、「啓・」と「肇・」に関して、新字・旧字の両方を子供の名づけに認める、という案でした。もう一つの選択肢は、「啓」と「肇」の新字だけを認める、という案でした。

昭和56年3月23日、国語審議会が常用漢字表を答申するに至って、民事行政審議会は結論を迫られました。そして、4月22日の総会で、民事行政審議会は、「啓」と「肇」の新字だけを子供の名づけに認める、と決定したのです。この結果、5月14日の民事行政審議会答申では、新字の「啓」と「肇」は子供の名づけに使ってよいが、旧字の「」と「」はダメ、となったのです。

昭和56年10月1日、常用漢字表が内閣告示されると同時に、戸籍法施行規則も改正されました。この際、民事行政審議会答申にしたがって、新字の「肇」が人名用漢字に追加され、旧字の「」は人名用漢字から削除されました。それが現在も続いていて、新字の「肇」は出生届に書いてOKですが、旧字の「」はダメなのです。旧字の「」は、昭和26年5月25日から昭和56年9月30日まで子供の名づけに使えた、幻の人名用漢字なのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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