人名用漢字の新字旧字

第88回 「隷」と「隸」

筆者:
2011年6月16日

新字の「隷」(左上が士)は、常用漢字なので、子供の名づけに使えます。旧字の「隸」(左上が木)は、常用漢字でも人名用漢字でもないので、子供の名づけに使えません。新字の「隷」は出生届に書いてOKですが、旧字の「隸」はダメ。実は「隷」と「隸」は単なる字体差に過ぎないのですが、ここではあえて「隷」を新字、「隸」を旧字と呼ぶことにしましょう。

漢字制限に関する審議をおこなっていた国語審議会は、昭和17年6月17日、文部大臣に標準漢字表を答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、2528字が収録されており、旧字の「隸」が含まれていました。標準漢字表は、昭和17年12月4日に文部省から発表されたものの、しかし、一般社会における漢字制限とはならず、あくまで義務教育で習得する漢字の標準という形にしかなりませんでした。

昭和21年4月27日、国語審議会は、常用漢字表を審議していました。この常用漢字表は、標準漢字表再検討に関する主査委員会が国語審議会に提出したもので、1295字を収録していました。しかし、この1295字には、新字の「隷」も旧字の「隸」も含まれていませんでした。この常用漢字表に対し、国語審議会は5月8日の総会で、さらなる検討を要する、と判断しました。それにともない、6月4日、常用漢字に関する主査委員会が発足しました。

常用漢字に関する主査委員会は、昭和21年8月24日の委員会で、新字の「隷」と旧字の「隸」のどちらを常用漢字に収録すべきか議論しました。というのも、この時点での日本国憲法草案は、新字の「隷」と旧字の「隸」の両方を使っていたからです。具体的には、前文には旧字の「隸從」が使われていて、第18条には新字の「奴隷」が使われていました。主査委員会は、日本国憲法に必要な漢字は全て常用漢字に収録しておくべきだ、と考えていたのです。しかし、新字の「隷」と旧字の「隸」のどちらを常用漢字に加えるかは、この日の委員会では結論が出ず、帝国議会での日本国憲法草案の審議を待つことになりました。

果たせるかな、昭和21年11月3日に公布された日本国憲法は、前文も第18条も新字の「隷」になっていました。これに合わせ、11月5日に国語審議会が答申した当用漢字表は、手書きのガリ版刷りだったものの、新字の「隷」を収録していました。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「隷」は当用漢字になりました。

昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、新字の「隷」が収録されていたので、「隷」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。旧字の「隸」は子供の名づけに使えなくなりました。その後、常用漢字表の時代になって、新字の「隷」は常用漢字になりましたが、旧字の「隸」は人名用漢字になれませんでした。それが現在も続いていて、新字の「隷」は子供の名づけに使ってOKですが、旧字の「隸」はダメなのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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