ユニオン・タイプライター社が設立された後のオール女史の仕事は、それまでとは大きく違うものになりました。全国を見世物のように行脚してまわるのではなく、ニューヨークやシカゴなど大都市での講演や実演という形が増えていきました。レミントン・スタンダード・タイプライター社は、もはやアメリカン・ライティング・マシン社と競争する必要はなく、同じユニオン・タイプライターの子会社となったからです。「Remington」と「Caligraph」は、義兄弟の関係となったわけです。
レミントン・スタンダード・タイプライター社でのオール女史の仕事は、タイプライター業界全体を発展させるということへ、その軸足を移していき、女性タイピストの増加を、特に、活動の主眼としていきました。たとえば、全国女性速記者協会(National Association of Women Stenographers)に対しては、名誉会員という名のスポンサーとして、協会の活動をサポートすると同時に、タイピストの養成に力を入れるよう助言していました。また、1893年5月から10月にシカゴで開催された万国博覧会では、全国女性速記者協会の求めに応じて、「Remington Standard Type-Writer No.2」での腕前を披露して見せました。さらには、女性向けの速記タイピスト学校を設立し、タイピングをおこなう女性秘書、というイメージをアメリカ社会全体に定着させるべく、自らは速記タイピスト学校の理事長として、経営に携わっていました。
一方、ユニオン・タイプライター社でのオール女史の仕事は、どうしてもキナ臭い雰囲気が漂っていました。1895年7月11日にウィックオフが死去した後、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、もはや、特許権を管理するだけの会社となっていて、経営の中心は、シーマンズ率いるユニオン・タイプライター社に移っていたのです。しかし、シャーマン反トラスト法を考えると、ユニオン・タイプライター社とウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社が、実質的に経営を分離していないのは、違法な状態だと言えます。
しかも、ユニオン・タイプライター社は、タイプライター業界の寡占に成功していました。「Caligraph」「Yost」「Densmore」は、代理店を統合した上で、代理店での販売価格が100ドルに引き上げられました。「Remington」や「Smith Premier」と同額になったわけで、誰の眼にも、違法スレスレの行為であることは明らかでした。キー配列も、QWERTYに統一されました。それでも、持株会社のユニオン・タイプライター社は、タイプライター5社との契約文書を、一切、結んでいないことになっていました。そのような、ややこしい状態にあるユニオン・タイプライター社において、信頼のおける秘書でありタイピストであるオール女史の役割は、非常に大きなものとなっていったのです。
(メアリー・オール(8)に続く)