1898年7月7~12日、ワシントンDCで開催された全国教育協会(National Educational Association)の第37回総会に、オール女史は参加していました。アメリカ中の教育関係者が集まるこの総会で、実行委員長のシェパード(Irwin Shepard)のもと、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、総会でのタイピング業務を無償でおこなっていました。オール女史は、この業務のために、速記反訳のできる女性タイピスト数人を連れて、7月初めから現地入りしていました。ここで、オール女史と女性タイピストたちは、総会や各セッションの草稿、速記録の反訳、プレス発表のための各種原稿をタイピングし、必要があれば印刷所に回したり、あるいは大量のカーボンコピーを作ったりしていました。ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、「Remington」タイプライターを宣伝するために、この無償援助をおこなったのですが、オール女史にとっては、むしろ女性タイピストそのものを宣伝するものでした。
翌年の1899年7月11~14日、ロサンゼルスで開催された全国教育協会の第38回総会にも、オール女史の姿がありました。この総会では、各種の委員会が事前開催あるいは併催されたのですが、それらの委員会に対しても、オール女史ひきいる女性タイピストたちは、大量の書類をタイピングし続けました。1900年7月チャールストン(サウスカロライナ州)での第39回総会、1901年7月デトロイトでの第40回総会、1902年7月ミネアポリスでの第41回総会と、毎年開催される全国教育協会総会に、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社は、女性タイピストたちを派遣し続けました。その都度、オール女史は事前に現地入りして、シェパードら実行委員会と共に事務局の設営をおこない、会期中は女性タイピストたちを指揮・監督しました。これらに加えて、全国教育協会の各州での会議や学会にも、オール女史は、女性タイピストたちを派遣しました。
オール女史ひきいる女性タイピストたちは、「Remington Typewriter」の名を、アメリカ中の教育関係者に広めました。それと同時に、オール女史は、各州の教育関係者に、タイピスト学校の設立をはたらきかけたのです。全国教育協会と全国女性速記者協会、その両方での活動を通じて、オール女史は、女性タイピストによる女性タイピスト教育を確立していきました。そして、アメリカ中のオフィスに女性タイピストを送り込むべく、オール女史は、全米各地で活動を続けていったのです。
(メアリー・オール(9)に続く)