全国教育協会第41回総会終了直後の1902年7月12日、レミントン・スタンダード・タイプライター社は、レミントン・タイプライター社に社名を変更しました。オール女史は、この日の時点では、まだミネアポリスにいたのですが、その後の「Remington」の変革に、巻き込まれていきました。一つは、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社との会社統合です。この時点では、レミントン・タイプライター社が生産した「Remington」タイプライターを、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社が販売する、という業態を取っていることになっていました。それを、販売も含めて全てレミントン・タイプライター社がおこなう、という形に変更していくことにしたのです。
もう一つは、モナーク・タイプライター社の設立でした。レミントン・タイプライター社の主力製品である「Remington Typewriter No.2」は、もはや四半世紀前の機種であり、販売台数に翳りが見え始めていました。ライバル機の「Underwood Standard Typewriter No.5」に、シェアを脅かされつつあったのです。シェアを奪還するために、レミントン・タイプライター社が取った策は、「Underwood Standard Typewriter No.5」のデザインをコピーすることでした。もちろん、特許の問題があるので、完全にコピーするわけにはいきませんが、プラテンの前面に挟んだ紙に印字をおこなうことでタイピングした文字が即座に見える、という「Underwood」のキモは、スミス・プレミア社の技術でクリアできそうでした。ただ、それでも特許訴訟になる可能性が非常に高かったことから、「Monarch Visible」と名づけられたこのコピーマシンの生産および販売は、新たに設立したモナーク・タイプライター社がおこなう、という形にしたのです。
1904年12月、「Monarch Visible」は無事、発売に漕ぎつけました。モナーク・タイプライター社の本社は、ニューヨークのブロードウェイ319番地、すなわち、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社の4軒隣りに置かれました。ただし、モナーク・タイプライター社の生産部門は、シラキューズに置かれました。モナーク・タイプライター社の株式は、その全てをユニオン・タイプライター社が押さえており、「Remington」「Caligraph」「Densmore」「Yost」「Smith Premier」に「Monarch」が仲間入りしたわけです。
(メアリー・オール(10)に続く)