京都で宿坊へ泊まることになった。学会のためだが、直前まで予約しなかったため、宿がほかに取れなかったのだ。智積院のことを「チシャクイン」とタクシーで速めに言うが、通じない。そうか、ここでは無声化させては聞き慣れなくなってしまう。丁寧に母音も発音して、東山のそこへ連れて行ってもらう。
小ぎれいな広めの和室で、夜には門限が定められている。夜が明けるとすぐに、お堂に移って早朝のお務めを眺める。5時台、京都の朝は空気が張り詰めた緊張感のようなものが漲っている。でも、正座を強制させられることもない。リズミカルな読経とそれに合わせて立ったり座ったり歩いたりして動くお坊さんたちと、くべられる護摩の立ち上る炎は神秘的で眠い目に幻想のように映る。儀式が終わると、庭園を経て、泊まった人だけが見られるという国宝の絵を見に再び日の下へ出る。建物に入ると蒔絵で有名な長谷川等伯の障壁画だった。後を継ぐはずの若い息子を失ってしまった悲しみも描き込まれているようで、迫ってくるものがある。
食事も精進料理とはいえ、卵などもありとてもしっかりと頂けて大満足だった。心の底から気に入ったので、東京に戻ってときどきその話をしていたら、次は職場の有志たちと自分の幼い子供を連れてそこに来ることになった。
そこでは、興教大師「覚鑁」の名が見られた。読みは「かくばん」、2字目は仏典で使われた字で「鑁阿寺(ばんなじ)」という寺や土地の名にもなったが、漢和辞書にはなかなか入れてもらえなかった文字であり、JISの第2水準によく入ってくれたものだ。
絵心経が飾ってある。漢字が読めなくとも、これでお経の発音を想起できたのだろう。こういうものは判じ物としての系譜ももつ。絵文字の走りのようだ。
このような宿坊という施設に、静かなブームがたまたまでも訪れるとは、予期しなかった。今度、改修工事をするそうだが、あの時に感じた良さは、きっと残っていくことであろう。皆が子供の世話をして歩き回ってくれたので、発表もスムーズに進められた。
京都では、カメラを持って少し足を伸ばす。向日市に出て、物集女(もずめ)町の街道を歩く。住まいの立ち並ぶ、落ち着いた地だった。やはり歩いたことのある河内の百舌鳥(もず)に由来するとされることは、字面と語形から思い至らなかった。『広文庫』でその一端を知ることのできる博識な物集(もずめ)高見の姓も、土地は離れていたが関係するのだろう。
静かな町を歩けば、西陣の味「五辻の昆布」など、関西らしく「辻」の字がよく目に入る。そして京都市内に戻り西京(にしきょう)区の「樫原」に着く。カシハラではなく、ここはカタギハラだ。「堅」い「木」だから「樫」という国字(衝突例は中国にもある)ができたわけで、「かたぎ」という語形も古くからあった。
張り巡らされた交通機関を利用して、山科区の「椥辻」にも出る。「なぎつじ」と読む。2字とも国字だが、1字目は京都でしか、生で使われているものにお目にかかれない、室町時代からの地域文字だ。ここのお店に入り、あなごの押し寿司で一服する。そこでは、地名の由来となったナギの木が植えられていた。説明書きを見ると、室町時代に生えていた往来の目印として旅人に「知」らせるためのナギの「木」はすでになく、新たに植え込まれたものとのことだった。歴史はなくても、思い起こすためのよすがにはなる。