信貴山の近く、近鉄生駒線で元山上口駅と東山駅の間にその地はあるらしい。その木はなにか。発音は? そして、どこに植わっているのか。
あらかじめWEBで見ておいたのと似た葉っぱの木が生えていた。道路沿いに改めて植えたものだろうか。京都の椥辻では、地名に合わせて、改めてその地にナギを植え直して目印としていた。
小雨の中、ゼミ生と歩く。民家や畑を回りながら住民に尋ねて回る。学生のケータイでは「しではら」で「椣原」と出てくるとのことだ。ほかの地名も変換できるとのことで、パソコンよりも性能が良いものがあるようだ(最近のスマートフォンよりガラケーと呼ばれるようになったこうしたもののほうが勝っていた機能もいくらかあるらしい)。メモにこの字を手書きして、何て読むのかを聞いてもらった。
地元の方々は、「しで」「ひで」のどちらなのだろうか。余所から越して来たという60歳くらいの男性は「しい」「しで」と読まれた。ただ、「なじみが薄い」のだそうだ。自転車に乗ってきた小学生(10歳くらい)は、「かし」と読んでくれた。私が「しで?」と聞くと「しで」。「「ひで」ではない」そうだ。初めは難しい字同士で「橿原」と混同したものだろう。
漢字以前に、「しで」とは何かが、そもそも分かりにくい。名字として知られる幣原よりも植物らしさが表現され、他の地名との対称性も高くなってはいるが、この「椣」という字だけではヒントになりにくい。この辺りでの「し>ひ」という当地の音韻の訛りの規則にそって「ひで」に自然となっていたのだろう。「七」「質」は「ひち」、「七条」も地名や姓で「ひちじょう」のようになり、文字にも現れることが西日本各地に起きている。江戸っ子も似た傾向を持ってはいるが、朝日新聞が「あさししんぶん」と「ひ>し」という方向の変化も、潮干狩りが「ひおしがり」と「ひ・し」の逆転も起こる。「ひではら」と「しおひがり」とは似ているが、ここでの変化は「し>ひ」と一方通行らしい。
地名辞典などで、「ひで・しで」の両方があることの謎は、こうして氷解した。
生駒郡平群町椣原53という地に、金勝寺(きんしょうじ)があった。行基菩薩の創建と伝えられるので、奈良時代からのお寺だそうだ。山号はそのものずばり椣原山、有名な磨崖仏も拝した。
これまで「ひではら」と「しではら」と両方の読みを活字で見たことがあったのだが、そこで頂いた坂本政央『[改訂版]平群谷の驍将 嶋左近』(2008)p14 には「現在の平群町大字椣原(しではら(原本はルビ))」「椣原山金勝寺」とある。また、金勝寺のパンフレットには「当時密生していた椣の霊木をもって薬師如来、日光月光両菩薩、十二神将共に一刀三礼の作と伝えられ」と、「椣」の字を普通名詞としての木の名にも転用している。こうしたことは、あちこちで普通に起きている。このシデの旁は、「仏典」や「典雅」あたりの「典」からなのであろうか。
大阪から嫁いでいらしたという方は、きれいな広い畳の部屋で、山号は椣原山(しではらさん)で、「弊」であり、「ぬさみたいな実がなる」と聞かせて下さった。「今は四手」とも書くもので、それを一文字にしたのだという。そのシデの木を1本だけ、30年前とおっしゃったか、以前に境内に植えたが、奈良時代に行基がこのお寺を開いた頃には、山一面に植わっていたと伝えられているとのことだ。
「椣原」は、地元の電柱には「ヒデハラ」とも書かれていた。これは、関電さん(関西電力)が聞き取りをしたときに、「ヒデハラ」と訛ったのをそのまま記してしまったものと聞けた。読めない字だが、「平群 へぐり」「楢原 ならはら」などヘンな地名が多いとのこと、「椹原 ふしはら」「櫟原 いちはら」も近隣だ。「榛原」町(はいばらちょう)は宇陀郡にあったが、近年、宇陀市に入った。木が生い茂り、歴史の深い土地柄だけに、「珍しい木偏の植物名の漢字(国字・国訓)+原」というパターンが広がっているようだ。奈良なので、「橿原」以来の伝統だろうか。
木は、昔から人々の暮らしとともにあった。京都に出れば、右京区には「栂尾」「槇尾」「高尾」という三尾がある。栂尾の「栂」は梅の異体字としては中国にあったが、トガ(ツガ)としては日本での造字である。形声式の「」という造字も明恵上人は使った。長野では栂池(つがいけ)高原が有名だ。シデに戻ると、島根には小地名「(しで)ノ木原」が雲南市にある。「椣」と少しばかり似て見えてきた。