『子供』キャラの物言いが「そもそも『子供』とはこれこれこのようなものだから『子供』キャラはこういうことばをしゃべるのだ」と説明でき、『大人』キャラの物言いが「そもそも『大人』とはこういうものだから『大人』キャラはこういうことばをしゃべるのだ」と説明できるなら、こんなに楽なことはない。だが、『子供』キャラや『大人』キャラのことばづかいには、そうした「常識言語学」でとらえきれない部分がある――前回述べたのはこのようなことである。「常識言語学」でとらえきれない、『大人』キャラの物言いをもう少し見てみよう。
何かモノを発見して「あ、あった!」などと言うことがある。そのモノがいま現在、目の前に存在しているにもかかわらず、発見したというきもちのおかげで「た」が自然に感じられるので、この「た」は発見の「た」と呼ばれることもある。
少しだけ専門的な話をさせていただく。発見の「た」については、「ひょっとしたらこのあたりにあるのではないか」といった事前の予期が必要か、それとも特に必要はないか、という争点がある。たとえば手帳を発見して「あ、手帳あった!」と「た」の文を発することができるのは、ただ発見したというきもちがあるだけではダメで、事前に「ひょっとしてこのあたりに手帳はあるのでは」と、うっすらとにせよ予期していたということが必要ではないか。まったく予期していなければ、いきなり手帳を発見した場合、「あ、手帳がある!」などとは言えても、「あ、手帳があった!」などとは言えないのではないか、いやどうだろうという問題である。この問題について諸家は「事前の予期は必要」「事前の予期は不要」の二説に分かれているが、ただ「必要」「不要」それぞれの記述が積み上げられるばかりで、二説間の論争は生じていない。
この問題に対して寺村秀夫先生は、事前の予期は必要ないというお考えを述べていらっしゃる。その根拠として寺村先生が挙げられるのは、井伏鱒二の小説『駅前旅館』(1956-1957)の一節である。ここでは、生野という番頭が高沢という別の番頭の奇癖について次のように述べている。
この男は、他にもまだ妙な癖がある。自分の持ってる銭を、人の知らない間に石崖の穴かどこかに隠しておいて、「おや、ここに銭があった。こいつで一ぱい飲もう」と云って人に御馳走する癖がある。
[『井伏鱒二全集 第十八巻』筑摩書房。仮名遣いは現代風に改めた]
生野の述懐によれば、高沢という男は「何の予期もなしに、なにげなく石崖をのぞき込んだら思いもかけず金を発見した」という芝居を打つのだから、高沢の「おや、ここに銭があった」という「た」発言には事前の予期はないと言うべきだろう。事前の予期がなくてもこのように「た」が自然になり得るわけだから、事前の予期は必要ない、というのが寺村先生のお考えのようである。
ところが、寺村先生と同じような例を作ってみても、あまりうまくいかない。「あなたは友達と山の中にハイキングに行きました。ふと見ると目の前の崖に、まったく思いがけないことにサルがいます。あなたはサルを指さして、サルに気付かない友達に教えてやろうとします」と状況を設定した上で、「ほら見て、あんなところにサルがいたよ」という「た」の発言が自然かどうか大学生に判断させると、たいてい半数近くが「不自然」と答えてしまう。そのくせ、『駅前旅館』の「おや、ここに銭があった」は大学生にもよく受け入れられ、調査したかぎりほとんど全員が「自然」と判断する。
寺村先生の記述は素っ気ないと思えるぐらいに短く、簡潔に終わっているが、当時の寺村先生の学生さん(いまはこの方が大学を退官されるお年である)に伺うと、寺村先生はこの実例探しに相当長い時間をかけていらっしゃったという。してみると『駅前旅館』は、ねらい澄まされた一撃と言うべきものだったのかもしれない。
さて、なんで『駅前旅館』だけうまくいくの? 寺村先生、どう「ねらい澄まし」たのですか? と言ってみても、寺村先生はすでにこの世の人ではないから、何も答えては下さらない。自分で考えるしかないのである。
では、『駅前旅館』のケースと山中ハイキングのケースで何が違っているのか?
それは、話し手のキャラクタである。
山中ハイキングの場合、「ほら見て、あんなところにサルがいたよ」という「た」の文の話し手は被調査者(大学生)自身である。だが、『駅前旅館』の場合、話し手は高沢番頭という、「金」のことを「銭」と言い、「こいつで一ぱい飲もう」と人を誘うような、古くさ~い『大人』である。
つまり半数近くの大学生は、事前の予期なしの発見の「た」について、「自分は言わない。でも、古くさい『大人』の物言いとしたらOK」という判断を下している。このことは、山中ハイキングに『大人』を登場させてみるとよくわかる。たとえば「みんなで行きましょうよ」と、この山中ハイキングを決めたお節介なおばちゃんにしゃべらせてみると、発見の「た」は次のように、ぐっと容認されやすくなる。
うわー、すっごい紅葉じゃないですかーやっぱり来てみてよかったでしょー、どうです田中さん。ねー。騒音もないし、空気も綺麗だし、あ、見て見て、ほら、あんなとこにサルもいましたよどうですこれー。
このように、発見の「た」を事前の予期なしで発することができるかどうかは、話し手のキャラクタしだいの部分がある。
自分のことを「オレ」と言うか「わし」と言うか「あたし」と言うかとか、同意する時「そうです」と言うか「そうっす」と言うか「そうでおじゃる」と言うかとか、文末に「そうだよぴょーん」と「ぴょーん」を付けるか付けないかとか、そんなところにばかりキャラクタは関わるわけではない。事前の予期なしの発見の「た」のような、もっと「文法的」なことばづかいにもキャラクタは関わっている。
「ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物像が使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ」とは、金水敏先生が『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(2003、岩波書店)の中で述べていらっしゃることである。
ここで「人物像」と呼ばれているものが我々の「キャラクタ」と等しいと考えると、私がいま述べたのは、役割語の範囲が意外に広大であって、発見の「た」のような、誰でも使いそうなものにも実は役割語としての側面があるということである。
間違っていたら後でいくらでも直すことにして、とりあえず「すべてのことばは役割語である」と考えてみた方がよさそうではないか。
と、今回いつになく長く書いているのは、実は金水先生と合同で、3月28日(土)・29日(日)に神戸大でシンポジウム「役割語・キャラクター・言語」を開くので、案内をしたいのである。私は上のようなことを発表するだけだが、金水先生、呉智英先生をはじめ錚々たる方々やフレッシュな若手研究者がお話し下さるので皆様ぜひおいでいただきたい。参加は無料、サイトにある指示にしたがって、できるだけ3月10日までにメールでお申し込みください。
詳細は⇒//www.let.osaka-u.ac.jp/~kinsui/char-sympo-2009.htmをご覧ください。