タイプライターに魅せられた男たち・第177回

山下芳太郎(32)

筆者:
2015年4月16日

1917年のクリスマスと、1918年の元旦を、山下たちは、ニューヨークやワシントンDCで過ごしました。タフト(William Howard Taft)前大統領やルーズベルト(Theodore Roosevelt)元大統領をはじめとするアメリカの要人たちにも会うことができて、山下たちの視察は、まずまず成功だったと言えるでしょう。また、委員会メンバーのうち伊藤と菱田は、オタワまで足を伸ばし、ローリエ(Wilfrid Laurier)前首相やホワイト(William Thomas White)財務大臣など、カナダの要人とも会談しています。

1918年1月18日、山下たち委員会一行は、サンフランシスコに戻ってきていました。あわただしい帰国準備のさなか、山下は、住友銀行桑港支店の国府精一に会っています。独立の日系の銀行をカリフォルニア州に設立できるかどうか、できるとすれば住友銀行はその中核となれるか、そのあたりを、現地の桑港支店としてもしっかり探ってほしい、と山下は考えていたのです。1月21日には、答礼のための一大夜会を開催し、そして1月23日、日本帝国政府特派財政経済委員会は、コリア丸でサンフランシスコ港を出帆しました。1月29日、ホノルル港に寄港し、横浜港に到着したのは2月9日のことでした。

到着するや否や、山下たち一行は、出迎えの人々や新聞記者に矢継ぎ早の質問を受けつつ、横浜正金銀行の帰朝祝賀会に臨むことになりました。その日の夜には東京に移動できたものの、もちろん東京でも祝賀会です。2月11日、委員会一行は天皇に拝謁し、帰朝の報告をおこないました。連日の祝賀会と慰労会の中、委員会は視察報告書の執筆に取りかかりましたが、結局、報告書の編纂には3ヶ月を要しました。そして、報告書提出後の5月23日、委員会一行は天皇に拝謁し、目賀田には勲一等瑞宝章が、山下を含む委員全員には金杯が授与されました。これをもって、日本帝国政府特派財政経済委員会は解散、山下は、やっと委員会の任務から解放されました。

報告書執筆中の1918年4月24日、山下は、住友鋳鋼所の取締役から、常務取締役へと昇格させられていました。ただ、委員会から解放されて住友鋳鋼所に戻っても、3ヶ月間に渡るアメリカ視察は、山下の心に、タイプライターによる事務効率化、というものを強く刻み込んでいました。アメリカでは、銀行のみならず、ほとんどの企業にタイプライターが導入されていて、伝票などの書類はタイプライターで打つのが常識となっていました。ビジネスレターすら手書きではなく、タイプライターなのです。そう考えると、日本の企業はあまりにも遅れていました。アメリカの企業に競争で勝つなどと、どだい無理な話だと、山下には思えたのです。けれども、日本語の「書字」を進化させて、タイプライターで打てるものにするならば、日本の企業にもまだチャンスはあるはずだ、と山下は考えました。

山下芳太郎(33)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。