世界大戦がほぼ終結し、1918年11月28日、パリ講和会議への大使として西園寺が選ばれると、とたんに山下の周辺は騒がしくなりました。西園寺が住友に、講和会議への随行員をひとり貸してほしい、と言い出したのです。山下は、これを固辞しました。山下はもう、政治の世界に戻る気はなかったのです。結局、住友総本店からは、12月26日付けで、松岡新一郎が随行員として任命されました。1919年1月14日、山下は神戸港で、西園寺と松岡を乗せた丹波丸を見送りました。
この頃「カナモジ ウンドゥ」には、星野行則が参加していました。星野は、加島銀行の取締役で、その意味では、住友銀行の山下とはライバルのはずなのですが、山下と日向の説く「カナモジ ウンドゥ」に、最も強く共鳴した一人だったのです。日向や星野とともに、山下は、大阪の広小路町に小さな事務所を借りました。「カナモジ ウンドゥ」の活動拠点として、事務局をおくことにしたのです。その一方で、山下に活字設計を依頼されていた平尾は、独特のデザインによるカタカナ活字を完成していました。各カタカナの「上列」を揃えるという山下のアイデアを前面に押し出し、その一方で、縦画を強調して文字幅を揃える平尾のこだわりが、カタカナ活字として結実したのです。
1920年11月1日、山下たちは仮名文字協会を設立しました。初代会長となった山下は、仮名文字協会の設立趣意書に、以下の5つの目標を掲げました(原文は旧字縦書き)。
1. 仮名の活字を研究改良し、かつ、その得たる優良の字体をもって、種々の大きさの活字を製作し、もっていかなる印刷にも差し支えなからしむる事。
英仏においては活字の種類は無数にある。わが仮名活字もまた、少なくも数十種なくては実用に適せぬ。また字体も逐次、改良工夫を要する。 2. 仮名の活字の使用を勧むる事。
学生その他種々の団体またはホテル等に仮名の活字を供給し、その印刷物にこの活字が適するや否やを験したいと思う。 3. 仮名文字をもって印刷せる文書を世間に拡むる事。
わが国在来の書物または新しき稗史小説、子供の読む絵本の類を仮名の活字にて印刷し、多数の人、殊に児童に仮名文字を見慣れしむる事をつとめたい。 4. 仮名文字の『タイプライター』を製作する事。
仮名文字の効果は『タイプライター』によって著しく発揮さらるるから、仮名の『タイプライター』を作り、当初はまず児童の娯楽用として、次は簡単なる事務用として、なるべく広くこれが使用を奨励したいと思う。 5. その他。
右のほか種々の方法を講じて、わが子孫が将来自然に漢字を廃し得るよう準備と基礎を作ることにつとめたい。
この5つの目標に賛同する方は、ぜひ仮名文字協会に入会して尽力ねがいたい、正会員は1ヶ月1円、賛助会員は1ヶ月5円以上の任意の額、と設立趣意書には書かれていました。
(山下芳太郎(34)に続く)