1879年11月5日、AWSAの総会がシンシナティで開催されました。AWSAの設立から早くも10年が過ぎ、会長はブラックウェルに交代していました。ロングリー夫人は、副会長の一人でした。ただ、この10年の間、AWSAの活動は、目立った成果を上げていませんでした。AWSAとNWSAに分かれてしまった女性参政権運動は、実際のところ、女性参政権の確立に寄与していなかったのです。
一方、1878年に発売された「Remington Type-Writer No.2」は、シカゴのみならず、シンシナティにおいても、少しずつ広まっていました。「Remington Type-Writer No.2」は、小文字を打つことのできるタイプライターだったので、電信局以外でも使われ始めていたのです。速記者の中にも、反訳や口述速記にタイプライターを使うべく、試行を重ねる人たちが現れていました。
1881年9月1~2日、シカゴのパーマーハウスで開催された速記者国際会議に、ロングリー夫妻の息子レオ(Leonel Anzuletta Longley)の姿がありました。レオの目的の一つは、エリアスの原稿の代読でした。この頃エリアスは、書痙とリューマチを患っており、シカゴまで出かけていくのは難しい状態でした。そこで、ロングリー夫妻は、息子のレオを、シカゴの速記者国際会議に送り込んだのです。速記者国際会議では数多くの発表がありましたが、中でも、タイプライターの速記への影響を扱った発表は、参加者の関心が高く、議論を呼びました。参加者のダニエル(Thomas Irvine Daniel)の報告を、見てみましょう。
デトロイトのフラワー夫人は、毎分119ワードのスピードでタイプライターを打っていた。すなわち、1分間に490文字もキーを叩けるということだし、あるいは500文字だって可能だということだろう。
これに対し、副会長のローズ(Theodore Cuyler Rose)も、こう答えています。
先週、グランドラピッズのウォルシュ&フォード法律事務所で見たのだが、若い速記者が、毎分97ワードものスピードでタイプライターを打っていた。しかも、その速記者はキーボードを全く見ずに、目線は元原稿だけを追っていたのだ。私は時計を持っていたので計ってみたのだが、確かに毎分97ワードだった。
初心者がロングリー式速記法を習得する際の目標は、毎分100ワードに達することでした。ロングリー式速記法とタイプライターを、そのまま比べることはできないものの、同等もしくはそれ以上のスピードでタイプライターを打つことができる、という事実は、レオのみならず、レオの報告を聞いたロングリー夫妻にとっても衝撃的でした。