みちのくの電信王、谷村貞治は、1896年3月19日、岩手県新堀村に生まれました。中等教育を終えた谷村は、盛岡の季村医院へと奉公に出ます。ゆくゆくは奉公先で医者になるつもりだったのですが、新たな医師法の制定により、医者になるためには、医学校を卒業しなければいけなくなりました。しかし、盛岡にあった岩手医学校は1912年で廃校となっており、谷村は、医者ではなく、電信技術者となる道を探り始めます。
1915年の春、逓信養成所の入試を2年連続で落ちた谷村は、東京に旅立ちます。この時は、すぐ岩手に戻ってきたのですが、同じ年の秋、再び東京に旅立ち、東京中央電信局で電信工夫の職を得ます。さらに谷村は、夜学にも通い始めます。ただ、都会で様々なことを学びたかったのか、東京歯科医学校、明治薬学校、神田電機学校、と夜間部を転々とし、さらには神田正則英語学校にも学びます。勉強の甲斐あって、谷村は逓信技手に昇進し、電信技術者としての道を歩み始めました。
1923年9月1日の正午前、関東地方を大規模な地震が襲いました。関東大震災です。谷村は、神田同朋町の自宅に駆け戻り、妻子の手を引いて、不忍池から上野公園に避難しました。しばらくはバラック住まいとなりましたが、小松川町に借間を見つけ、家族で仮住まいを始めました。大震災で、東京の電信網はズタズタになっており、これを復旧しないことには仕事になりません。しかし復旧しようにも、電信線も電信機も、その大半が輸入に頼っていました。そして、その輸入を一手に引き受けていたのが、サミュル・サミュル商会(Samuel Samuel & Company)でした。
横浜に日本本社があったサミュル・サミュル商会も、震災でダメージを受けており、本社機能を神戸に移して再起を図っていました。英語を学んでいた谷村は、電信線や電信機の購入で、たびたびサミュル・サミュル商会と交渉する羽目に陥りましたが、そんな中、思わぬ提案を受けます。逓信省を辞めて、サミュル・サミュル商会に来ないか、というのです。輸入した電信機に不良がないかテストしたり、あるいは電信機そのものを日本向けに改良したり、そういうことのできる技術者で、しかも英語のマニュアルを日本語に翻訳できる人間を、サミュル・サミュル商会は必要としていたのです。
高給を約束されたヘッド・ハンティングに、谷村の心は揺れました。逓信技手の安月給では、生活の立て直しも苦しく、加えてもともと病弱だった妻が、震災後はほぼ寝たきりで、薬代にも事欠く始末です。谷村は、サミュル・サミュル商会への転職を決意しました。
(谷村貞治(2)に続く)