1941年6月19~20日にシカゴで開催された「国際商業学校コンテスト」の直後、ドボラックは、モーゲンセン(Allan Herbert Mogensen)という人物から、ある依頼を受けました。モーゲンセンは、毎年夏にレークプラシッドにおいて、「作業簡素化会議」(Work Simplification Conference)を6週間の会期で開催していました。その「作業簡素化会議」でドボラック式配列を紹介したい、さらには、そのための映画を制作してほしい、と、モーゲンセンはドボラックに依頼してきたのです。ドボラックは、この依頼を承諾し、1942年夏の「作業簡素化会議」に向けて、ロチェスターのチック(Robert Charles Chick)が経営する写真スタジオと共に、映画制作の準備に取りかかりました。
内容的には、ドボラック式配列と、従来のQWERTY配列とを比較することで、ドボラック式配列の利点を分かりやすい映像で伝える、というのが、この映画の狙いでした。ただし、「作業簡素化会議」の会場レーク・プラシッド・クラブの映写施設を考えると、35mmやトーキーの上映は無理なので、当然16mmサイレント方式です。でも、16mmサイレントであれば、逆に、スタジオ外でのロケ撮影は楽です。音声なしで画像だけ撮影して、後から字幕を間に挿入すればいいのですから。ドボラックは、まず、シカゴ大学に異動していたメリックを訪ね、シカゴ大学附属中学校でドボラック式配列を教えるメリックと、その生徒たちの様子をフィルムに収めました。
ドボラックは、次に、フェントンをロチェスターに呼び寄せました。ロチェスター在住のタイピストと、フェントンを競わせ、その様子を撮影するためです。在住のタイピストとしては、ビジネス学校のタイプライター教員エンゲルソン(Laura E. Engelson)が選ばれました。白い服を着たフェントンと、黒い服を着たエンゲルソンが、お互い差し向いに座り、フェントンにはドボラック式配列の「Royal KMM」が、エンゲルソンにはQWERTY配列の「Royal KMM」が、それぞれ準備されました。フェントンとエンゲルソンが同じ文章を打つことで、その指の動きの違いを撮影し、ドボラック式配列の利点を伝えようとしたのです。ところが、この映像は、ややインパクトの弱いものになってしまいました。確かに、指の動きはフェントンの方が小さいのですが、キャリッジを戻す左手の動きが二人とも大きく、映像としてはそちらが目立ってしまったのです。
そこでドボラックは、電動タイプライターを使って、同じ撮影をおこなうことにしました。電動タイプライターならば、キャリッジリターンや改行は、ボタンを押すだけでOKです。ただ、エンゲルソンが電動タイプライターに慣れていなかったのか、今度の対戦相手には、マイヤー(Charles Mayr)が選ばれました。白い服を着たフェントンと、黒い服を着たマイヤーが、お互い差し向いに座り、フェントンにはドボラック式配列の「IBM Electromatic」が、マイヤーにはQWERTY配列の「IBM Electromatic」が、それぞれ準備されました。そうして、フェントンとマイヤーが、同じ文章を打つ様子を撮影したのです。
(オーガスト・ドボラック(7)に続く)