その少し前の1936年5月12日、ドボラックとディーリーのアメリカ特許(U. S. Patent No. 2040248)が成立しました。これにより、ドボラックとディーリーは、ドボラック式配列を搭載したタイプライターの生産者に、特許使用料を請求できることになりました。そうすると、不思議なことが起こりました。ドボラック式配列を掲載した論文や記事が、パッタリと消えてしまったのです。それはドボラック本人が書いたものでも、同様でした。この頃ドボラックは、『The Business Education World』誌の1937年4月号と5月号に、メリックと共著で論文を掲載しています。「正しいタイピング動作」「タイピング速度と正確さ」と題されたこれらの論文は、タイピングにおける正確な動作と、その研究こそが、速度を上げ、誤りを無くすのだ、という主張の論文で、もちろんタイプライターに関するものでした。ところが不思議なことに、これらの論文には、ドボラック式配列のことが(少なくとも表面的には)全く書かれていないのです。
1937年6月24〜25日にシカゴで開催された「国際商業学校コンテスト」に、ドボラックは、また学生たちを連れて行きました。この年の「国際商業学校コンテスト」は、シカゴのWBBMラジオとのタイアップでおこなわれ、WBBMで人気を博していたトミー・バートレット(Thomson “Tommy” Bartlett)がプレゼンターをつとめました。このコンテストで、フェントンは、清書タイピングの大学生オープンと、ディクタフォンの大学生オープンの両方で優勝を飾り、しかもディクタフォンでは、1分あたり87ワードの新記録を樹立しました。フェントンはストウェル・トロフィーを授与され、その時の写真が、全米の新聞に掲載されました。ワシントン大学の学生フェントンが、ディクタフォンからの文字起こしで新記録を樹立し、トミー・バートレットからトロフィーを授与された、そう各新聞は報じました。でも、どの新聞も、フェントンがドボラック式配列を使っていたことには、全く触れていませんでした。
一方、この1937年にドボラックは、メリックとバウン(Robert Frederick Bown)との共著で、『タイプライターと私』(My Typewriter and I)を出版しています。『タイプライターと私』は児童向けのタイプライター教本で、前半はQWERTY配列、後半はドボラック式配列によるタイピング練習が記されたものでした。ドボラックが書いたタイプライター教本なのに、その中身は、ドボラック式配列だけではなかったのです。ちなみに、この年にドボラックは、ワシントン大学教育学部の教授に昇進しました。
(オーガスト・ドボラック(6)に続く)