『枕草子日記的章段の研究』発刊に寄せて

(23) 長徳の変~定子周辺~

2010年3月23日

中関白道隆が亡くなった後、中宮定子の最も身近な後見役は兄伊周と弟隆家でした。しかし、二人は長徳の変で政治的な力を失ってしまいました。残された大きな依り所は夫の一条天皇でしたが、定子は罪人の近親者として宮廷から退出せざるを得ませんでした。二条邸で、兄弟が検非違使(けびいし)に引き立てられる現場に同席し、定子は愁嘆場を体験しました。『枕草子』が語らないその日の出来事を『栄花物語』は詳細に描写しています。

 宮の御前、母北の方、帥殿、一つに手をとり交して惑はせたまふ。はかなくて夜も明けぬれば、今日こそはかぎりと、誰々も思すに、たちのかんとも思さず、御声も惜しませたまはず。「いかにいかに、時なりぬ」とせめののしるに、宮の御前、母北の方、つととらへて、さらにゆるしたてまつらせたまはず…
(中宮、母北の方、帥殿(=伊周)は手を一つに取り合って、取り乱していらっしゃる。どうしようもないまま夜が明けてしまったので、今日こそ最後と、どなたもお思いになるが、その場を離れようとも思われず、声を惜しまずお泣きになる。「どうしたどうした、出発の時間になったぞ」と検非違使が大声で急かすが、中宮と母北の方は伊周をしっかりつかまえて、絶対にお放しになろうとしない…)

配所へ出立すべき時がきても、母と妹に取りすがられて泣き続け、その場を離れようとしない伊周の姿には、政権を巡って道長と対立していた頃の勢いのかけらもありません。長徳元年以降、『枕草子』の記事から伊周の姿が消えますが、道長にくみして栄える斉信と対照的に、中関白家没落の主役となった伊周を、作者は描くことができなくなったのでしょう。

長徳の変を境に、定子の身に次々と不幸な事件が起こります。長徳の変の際、二条邸に立て籠っていた兄弟のうち、先に隆家が出立した5月1日に、定子は自ら鋏を取って髪を切り、出家の意志を示しました。翌月の6月8日には二条邸が焼亡し、定子は身分の低い男に抱えられて、一旦、祖父の高階成忠宅に入り、そこから車で叔父明順宅に避難したとも記録されています。当時、流罪の刑を受けた貴族の屋敷は往々にして放火されたのです。

定子がいなくなった宮中では、娘を后に据えようと、公卿たちが動き出します。7月に大納言公季(きんすえ)娘の義子、11月に右大臣顕光の娘元子が入内しました。

二条邸焼亡の後、定子の消息は記録上からしばらく消えますが、10月に母貴子が病死した時には傍にいたと思われます。その直前、大宰府に行く途中で体調不良を訴え、播磨に留め置かれていた伊周が、母危篤の報を聞いて密かに入京します。しかし、密告によって再逮捕され、今度こそ大宰府に送還されるという騒動になりました。

これまでにない様々な事件が中関白家に次々とふりかかり、定子周辺は悲嘆に暮れる日々が続いたでしょう。そんな年の終わりに定子は出産します。20歳での初めての出産、その妊娠中に定子の受けた精神的、肉体的な苦痛ははかりしれません。長徳2年12月16日に誕生したのは、一条天皇にとっても第一子となる修子内親王でした。

筆者プロフィール

赤間恵都子 ( あかま・えつこ)

十文字学園女子大学短期大学部文学科国語国文専攻教授。博士(文学)。
専攻は、『枕草子』を中心とした平安時代の女流文学。研究テーマは、女流作家が輩出した西暦1000年前後の文学作品の主題や歴史的背景をとらえること。
【主要論文】
「枕草子研究の動向と展望―年時考証研究の視座から―」(『十文字学園女子短期大学研究紀要』2003年12月)、「『枕草子』の官職呼称をめぐって」(『枕草子の新研究―作品の世界を考える』新典社 2006年 所収)、「枕草子「二月つごもりごろに」の段年時考」(『百舌鳥国文』2007年3月)など。

『枕草子 日記的章段の研究』

編集部から

このたび刊行いたしました『枕草子日記的章段の研究』は、『枕草子』の「日記的章段」に着目して、史実と対照させ丁寧に分析、そこから清少納言の主体的な執筆意志をとらえるとともに、成立時期を新たに提案した『枕草子』研究者必読の一冊です。

著者の赤間恵都子先生に執筆にいたる経緯や、背景となった一条天皇の時代などについて連載していただきます。