ユタ州成立後のマッガリンは、銀行家および実業家として、どんどん成り上がっていきました。1899年にはソルト・レーク・ストック&マイニング社の設立に携わり、1905年にはソルト・レーク・セキュリティ&トラスト社の頭取に就任しています。また、この間に、家庭用ゴミ焼却炉の生産・販売にも手を染め、それに関する特許を3つ取得しています(United States Patents Nos.704359,779960,and 835311)。
一方、マッガリンとLDSの確執は、ますます深まるばかりでした。連邦議会上院は1904年1月、LDSのスムート(Reed Owen Smoot)上院議員に対する査問を開始しましたが、これに際してマッガリンは、スムートの議席剥奪を主張し、あちこちの新聞インタビューで「反モルモン」の旗印を前面に押し出したのです。結局、1907年2月20日の罷免投票でスムートは勝ち、上院の議席を保持しました。しかしそれは、マッガリンとLDSの確執を、さらに助長する結果となったのです。
他方、マッガリンは、ユタ州やその周辺地域の開発事業にも力を注ぎました。ネバダ州トノパー近郊の鉱山発掘を手始めに、ハモンド運河(カトラー・ダムからブリガム・シティに至る高低差1300mの運河)の開発、各都市でゴルフ場の造成をおこなったのです。ところが、開発事業も中途の1915年10月、ソルト・レーク・セキュリティ&トラスト社が乗っ取られました。LDSのキャノン(George Mousley Cannon)が仕掛けたもので、SLCC (Salt Lake Commercial Club)議長のウッドラフ(Edward Day Woodruff)が、理事取締役の座に着きました。その直後にマッガリンは頭取を辞職し、カリフォルニア州オークランドに脱出しました。
オークランドの郊外には、マッガリンが造成の一翼を担ったセコイヤ・カントリー・クラブというゴルフ場がありました。54歳のマッガリンは、オークランドで開発をおこなう実業家として、また、このゴルフ場をホームとするプロゴルファーとして、残りの人生を生きることを決意したのです。そして18年後の1933年8月17日、マッガリンは永眠しました。72歳でした。マッガリンの葬儀は、セコイヤ通り9000番地の自宅でおこなわれ、セント・ルイス・カトリック教会で安息のミサがおこなわれました。
セコイヤ・カントリー・クラブのすぐ北側には、マッガリン通りと名づけられた袋小路が、今も残っています。セコイヤ通り9000番地の袋小路を、マッガリンにちなんで改名したのです。しかし、オークランドの東のはずれにあるこの小さな袋小路が、タッチタイピングの祖にちなむ通りであることを知る人は、もうほとんど残っていません。
(フランク・エドワード・マッガリン終わり)