人名用漢字の新字旧字

第21回「唖」と「啞」

筆者:
2008年10月9日

新字の「唖」は子供の名づけに使えません。旧字の「啞」も子供の名づけに使えません。「唖」も「啞」もどちらも、常用漢字でも人名用漢字でもないので、出生届に書くのはダメ。そんな漢字をこのコラムで紹介するなんて、何だか変な話ですよね。実は、平成16年の人名用漢字追加の際に、「唖」と「啞」は微妙な役割を果たしたのです。

法制審議会は平成16年2月10日の総会で、人名用漢字の見直しを決定、人名用漢字部会を発足させました。 3月26日に発足した人名用漢字部会では、戸籍法第50条にいう「常用平易な文字」を選ぶべく、当時最新の漢字コード規格JIS X 0213 (平成16年2月20日改正版)、平成12年3月に文化庁が書籍385誌に対しておこなった漢字出現頻度数調査、全国の出生届窓口で平成2年以降に不受理とされた漢字、の3つをもとに審議をおこないました。新字の「唖」はJIS X 0213の第1水準漢字で出現頻度が72回、旧字の「啞」はJIS X 0213の第3水準漢字で出現頻度が198回でした。そして、「唖」もしくは「啞」を不受理とした出生届窓口は、全国50法務局のうち5管区にまたがっていました。

人名用漢字部会は、「啞」や「糞」のような漢字を人名用漢字にしたくない、と考えていました。ただし、人名用漢字部会に与えられた使命は、「常用平易な文字」を選ぶことであって、それが子供の名づけにふさわしいかどうかの判断までは委ねられていませんでした。そこで、人名用漢字部会は、これらの漢字が追加候補から外れるような基準を、まず考えることにしたのです。「啞」は、出現頻度が198回で、不受理の法務局数が5です。したがって、出現頻度200回未満で、かつ不受理の法務局数が6未満の漢字を、全て追加候補から外すことにすれば、「啞」と「唖」は自然と追加候補から外れることになります。このようにして、追加候補選定基準が作られました。

追加候補選定基準 漢字出現頻度数調査
200回以上 50~199回 1~49回
不受理の法務局数 11以上 JIS第1~3水準 JIS第1・2水準 JIS第1・2水準
8~10 JIS第1~3水準 JIS第1・2水準 JIS第1水準
6~7 JIS第1~3水準 JIS第1水準 JIS第1水準
0~5 JIS第1・3水準 - -

しかし、「糞」の出現頻度は773回とかなり多く、これを追加候補から外すと、かなりたくさんの漢字が追加候補から落ちてしまいます。平成16年6月11日、人名用漢字部会は、「糞」を含む578字の追加案を公開しました。出現頻度だけではどうしようもないので、「糞」などの漢字に対する反対意見を国民から集めることで、人名にふさわしくない漢字を追加候補から削除しようと考えたのです。ただし、「唖」や「啞」は最初から追加案に含まれてなかったので、議論にすら上りませんでした。

人名用漢字部会の目論見は見事に的中し、「糞」「屍」「呪」「癌」「姦」「淫」「怨」「痔」「妾」に対して、それぞれ100件以上の反対意見が寄せられました。「唖」や「啞」が含まれていないことには、ほとんど誰も気づきませんでした。人名用漢字部会は、大手を振って「糞」などの漢字を追加候補から削除し、平成16年8月25日、追加候補488字を法制審議会に報告しました。法制審議会は追加候補488字を、そのまま法務大臣への答申(平成16年9月8日)とし、 9月27日の戸籍法施行規則改正で、これら488字は全て人名用漢字に追加されました。もちろん「唖」や「啞」は人名用漢字に追加されず、それが現在に至っているのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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