昭和15年6月25日に開かれた国語審議会懇談会には、大日本帝国陸軍から8人の出席者が招かれていました。この懇談会は、陸軍の兵器名称用制限漢字表について、ぜひ話を聞かせてほしい、と国語審議会側がもちかけて実現したものでした。
大日本帝国陸軍が昭和15年2月29日に通牒した兵器名称用制限漢字表は、兵器の名に使える漢字を1235字に制限したものでした。日中戦争の拡大にともない、陸軍では新兵が次々に入営していたのですが、兵器の名に難しい漢字が使われていると、それらの漢字を兵士が読み書きできないという問題が起こっていました。そこで陸軍では、おおむね尋常小学校4年生までに習う漢字959字を一級漢字とし、これに兵器用の二級漢字276字を加えて、合計1235字を兵器の名に使える漢字として定めたのです。この一級漢字の中に、新字の「沢」が含まれていました。旧字の「澤」では書くのに時間がかかることから、新字の「沢」を兵器の名に使い、旧字の「澤」は使わないこととされたのです。
陸軍における漢字制限の成功に鼓舞された国語審議会は、2年後の昭和17年6月17日、標準漢字表を文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字、の合計2528字を収録していました。この常用漢字の中に、新字の「沢」が含まれていました。「沢」の直後には、カッコ書きで「澤」が添えられていて、「沢(澤)」となっていました。国語審議会も、旧字の「澤」ではなく新字の「沢」を使うべきだ、と答申したのです。しかし、太平洋戦争のまっさなか、標準漢字表は一般社会には浸透しませんでした。
終戦後も国語審議会は、漢字制限に関する審議を続けました。そして、昭和21年11月5日に当用漢字表を答申します。当用漢字表1850字は、手書きのガリ版刷りでしたが、新字の「沢」が収録されていて、直後にカッコ書きで旧字の「澤」が添えられていました。やはり「沢(澤)」となっていたわけです。もちろん当用漢字表でも、新字の「沢」が正式なものでした。翌週11月16日に当用漢字表は内閣告示され、新字の「沢」は当用漢字になりました。
昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、新字の「沢」が収録されていましたので、「沢」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。しかし旧字の「澤」は、あくまで参考として当用漢字表に添えられたものでしたから、子供の名づけに使ってはいけない、ということになりました。それが現在も続いていて、戦中に兵器の名に使えた「沢」は子供の名づけに使ってOKで、兵器の名に使えなかった「澤」は子供の名づけにも使えないのです。