1917年9月13日、山下は、日本帝国政府特派財政経済委員に任命されました。目賀田種太郎を委員長とするこの委員会の目的は、3ヶ月間に渡るアメリカ視察でした。ヨーロッパでの大戦の間も繁栄を続けるアメリカの財政経済は、いったいどうなっているのか、それをしっかり視察してくるのが、委員会の最大の目的でした。それに加え、日米両国間の経済共助の確立、日中関係および日露関係におけるアメリカとの共同歩調の模索、そして、アメリカにおける排日運動の実情調査などが、委員会に課せられた使命でした。委員会のメンバーは、委員長の目賀田、大蔵書記官の松本修、大蔵省臨時調査局の阪口武之助、臨時産業調査局の伊藤文吉、朝鮮総督府の菱田静治、久原総本店の小池張造、明治鉱業の松本健次郎、三井銀行の米山梅吉、そして、住友銀行の山下の合計9名でした。
9月22日、山下は目賀田とともに、今橋の大阪倶楽部にいました。住友と鈴木が、目賀田の壮行会を企画し、合わせて、在阪の実業家たちとの意見交換会をおこなったのです。9月28日、山下は、住友らとともに東京へ向かい、10月3日には首相官邸での壮別晩餐会に出席します。150人もの陪賓が居並ぶ晩餐会の席上、首相の寺内正毅は以下のように演説し、日本帝国政府特派財政経済委員会が、政府委員と、山下を含む実業界の委員とで構成されている意義を、強くアピールしました。
今回、目賀田男を委員長に任命し、各委員をしたがえ米国に派遣することとなしたるは、彼我経済上もっとも密接の関係を有し、かつ同国が今次非常なる決心をもって施設したる戦時財政経済上の規模はすこぶる遠大にして、まさに世界の産業ならびに金融界に深甚なる影響を及ぼさんとす、殊に一衣帯水の我が国は、利害関係もっとも密接なるをもって、その実情を研究せしめ、財政経済上の根基を強固ならしむるの必要あるがためなり。時局発生以来、我が国経済状態は幸いにして好調を呈し、我が産業は未曾有の発達をなす。しかれども世界戦局の趨勢に顧みれば、決して晏如たるを得ず。幸い米国の参戦は、与国に一大勢力を加えたるも、露国今日の情勢は、憂慮おく能わざる所、戦局の前途なお遼遠たるを思わずんばあらず。されば政府に於いても、時局のもたらしたる我が国経済界の順調を助長し、かつこの順調に伴いて生ずる各種の弊害を防止し、戦争終息に依りて生ずべき財界の変動に備え、もって経済的独立の素地を作り、国家の基礎を強固ならしめざるべからず。すなわち政府は、これに必要なる諸機関を設けて、講究ならびに実行に遺憾なきを期しつつあるも、その講究ならびに実行に就きては、朝野一致協力するを、もっとも緊要なりとす。
10月10日に委員会9名は寺内首相と共に参内、大正天皇に拝謁します。その間も連日連夜の壮行会が続き、そして10月15日、山下たち一行は、東洋汽船のコリア丸で横浜港を出帆しました。
(山下芳太郎(27)に続く)