カタカナ活字の改良は、しかし、そう簡単なものではありませんでした。この頃、山下が試作した活字は、カタカナの「ニ」と漢数字の「二」を見分けることができるよう、カタカナの「ニ」のデザインを変更しており、それがかえって視認性を悪くしていました。また、「イ」「ト」「ノ」などの活字幅を細く造ることで、いわゆるプロポーショナルフォントに近いものを目指しているのですが、そうすると欧文に近い組版を必要とするため、今度は印刷屋を困らせる結果となっていました。読みやすいカタカナ活字というものが、いかに難しいものなのか、山下は身をもって知ることになったのです。
1916年6月24日、山下は大阪府庁にいました。およそ5年越しで進めてきた安治川と正蓮寺川の整備計画が、地元の地権者の合意も得られ、府からの認可もほぼ筋道がついたことから、正式な計画書を府庁に提出することになったのです。着工から完成までに10年を要する一大プロジェクトで、その費用は全て住友と地権者が負担する、という途方もない計画でした。しかも、完成後の防波堤は大阪府と大阪市の管理下におかれ、さらには新たにできる埋立地も、完成後は府と市の官有地とした上で、それを住友が借り受ける形になるという、かなり厳しい条件のプロジェクトでした。それでも、安治川北岸地域の再開発を睨んだ上で、どんな条件であっても、このプロジェクトを完遂すべきだと山下は考えていました。
その一方で山下は、住友建築部の平尾善治に、新たなカタカナ活字のデザイン設計を依頼していました。山下自身がデザインするより、京都高等工芸学校で正式にデザインを学んだ平尾に、カタカナ活字をデザインしてもらおうと考えたのです。山下のアイデアのうち、各カタカナの「上列」を揃えるという点は、平尾も賛成しました。たとえば「アラク」と並べた時に、上に来る横線を一直線に揃える方が、まとまって見えるのは確かです。しかし平尾は、山下の主張する「幅狭き字体」には、全く賛成しませんでした。日本人の眼に慣れているのはほぼ正方形のデザインであって、縦長のカタカナは読みにくい、と言うのです。その意味では、プロポーショナルフォントなどもっての外で、小書きのャュョッですら、ヤユヨツと同じ幅に設計すべきだろう、というのが平尾の考えでした。また、視認性を高めるには、カタカナの縦画や斜画を、普通より太くしなければならないだろう、というのが平尾の予想でした。実際、ローマ字の活字は、たいてい、縦画を太くする形でデザインされていたからです。
(山下芳太郎(26)に続く)