前回までで見てきたように、戦前の日本でベントン彫刻機をじゅうぶんに使いこなし、明朝体漢字の母型まで完成させていたのは三省堂だけだった。そのベントン彫刻機が戦後、一気にひろがっていくことになるのだが、じつはそのまえに三省堂のベントン彫刻機はおおきな危機をのりこえていた。大正12年(1923)にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)から日本にとどいた直後、関東大震災により一時行方不明になって以来の危機だった。
今回の主人公となるのは、三省堂の細谷敏治である。
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細谷敏治(ほそや・としはる/1913-2016)は山形県出身。医師の家に生まれ、小学生時代からカメラが趣味。ほかにも将棋五段、弓道四段、水泳は中学時代に選手としてならして師範の腕前と、多趣味なうえに凝り性だった。山形県立寒河江中学校(旧制中学)を卒業後、上京して東京高等工芸学校印刷工芸科に入学(のちの千葉大学工学部/以下、高等工芸)。印刷は当時最先端の産業であり、それについてまなべる最高学府が、国立学校である高等工芸だった。
印刷工芸科は20人1クラスのみの少数精鋭。実習もまじえながら、3年間で活版印刷やオフセット印刷についてまなんだ。就職は教員が世話をして、どんどん決めていった。〈その当時、『コンサイス』をはじめ辞書の出版・印刷を手がける三省堂は、皆の憧れの企業でした〉と細谷は言う。[注1]
人気企業の三省堂にはだれもが入れたわけではなく、学校からの推薦は毎年1人だけだった。だからある日、職員室に呼ばれ「きみ、三省堂はどうかね?」と教師から問われた細谷は、「おねがいします」と即答で入社を決めた。
昭和12年(1937)春に高等工芸を卒業すると、技師として三省堂に入社。最初の3年間は、活字鋳造や組版、紙型複版などの活版製版を担当した。そして昭和14年(1939)ごろから、ベントン彫刻機による母型彫刻にもたずさわるようになる。もともと研究者肌だった細谷は、彫刻のみならず母型の研究に力をそそぎ、より効率的な母型製作方法を探究しはじめて、やがて「日本語パンチ母型の実用化」というおおきな成果をあげるのだが、それはまたべつの話だ。[注2]
細谷が入社した昭和12年は、日中戦争が開始した年である。昭和14年(1939)には第二次世界大戦が、昭和16年(1941)12月には太平洋戦争がはじまった。昭和19年(1944)10月、三省堂蒲田工場は日本海軍の管理下にはいる。[注3] 海軍の印刷物を請け負っていた横浜の文寿堂という印刷会社の傘下として、海軍の教科書などの印刷をおこなったのだ。
細谷が書きのこしたノートに、こんな記述がある。
太平洋戦争の時、文寿堂という印刷会社があった。横浜に所在していた、当時の日本海軍管理工場であった。日本海軍の印刷物はすべて、この文寿堂で行われておった。従って会社も大変な勢いであった。文寿堂のバッチを胸に、帽章のついた帽子を被り闊歩していた時代のことである。
三省堂も文寿堂からの海軍の教科書などの仕事の手伝いをしていた時代である。三省堂も文寿堂の傘下に入らざるを得なかったのであろう。筆者も文寿堂社長の弟さんの印刷技術一般などについて、案内役のようなことをしておった。
細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)
文寿堂は佐藤繁次郎によって明治10年代に創業した会社である。当初は文房具店として創業された。太平洋戦争中において海軍の仕事を請け負ったのは、二代目社長・佐藤繁次郎(一代目と同名)の時代だった。
43年(筆者注:昭和18年)、海軍は横浜の根岸にあった競馬場を印刷所として確保し文寿堂に任せた。機械や用紙、要員は東京の大手印刷会社などから集め、スタンドの下で海軍の暗号表などを印刷した。
「企画特集 3【漱石没後100年】」(朝日新聞、2016年4月30日)[注4]
ここでいわれている〈東京の大手印刷会社〉に三省堂もふくまれていた。このころには輸送などの関係から用紙の配給がほとんど停止し、三省堂の一般的な出版活動は極端に減っていた。そうしたなか、昭和19年(1944)10月に蒲田工場が海軍の軍需工場となり、昭和20年(1945)2月には神田工場も陸軍管理下の軍監督工場となった。工場従業員のおおくは文寿堂に配置転換され、昭和18年7月時点で733人いた三省堂の従業員は、昭和20年6月には346人にまで減っていた。[注5]
当時は、社員も三省堂から文寿堂に移籍する人が続出していた。しかし三省堂では(筆者注:出版活動がほぼ停止状態だったので)特に仕事に支障はなかった。私も再三誘われたが三省堂から離れる気はさらになかった。
細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)
昭和19年(1944)11月24日、アメリカのB29爆撃機による東京への本格的な空襲がはじまった。くりかえされる空襲は、激化が予想された。危機感をつのらせた三省堂の今井直一(当時専務)は、蒲田工場技師として製版課・植字課の課長を兼務していた細谷に特命をくだした。
それは、ベントン彫刻機やパターンをはじめとする蒲田工場内の重要物の持ち出し――安全な場所に移転させよ、という命令である。
容易なことではない。三省堂蒲田工場は、文寿堂傘下の海軍管理工場となっていて、海軍の軍人が工場出入り口の大門の守衛室に毎日、朝から晩まで常勤監視しているのであった。
細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)
(つづく)
[参考文献]
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
- 『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、1955)
- 『印刷材料時報 創刊満十周年記念誌』(印刷材料時報社、1958)
- 雪 朱里『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』(グラフィック社、2019)
- 細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)
[注]
http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20160502150280002.html